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テーマ:今日のこと★☆(104015)
カテゴリ:ものづくり
金曜日から日曜日、屋久島と種子島に弾丸旅行してきました。
阪急交通社のツアーです。 金曜日;羽田空港ー(JAL)ー鹿児島空港ー(バス)ー鹿児島港ー(水中翼船)ー屋久島ー宿泊(20時夕食) 土曜日;屋久島観光 日曜日;屋久島ー(フェリー)ー種子島観光ー(水中翼船)ー鹿児島港ー(バス) ー鹿児島空港ー(JAL最終便)ー羽田空港 とても忙しい旅行でしたが、いくつか発見があり興味深い旅行でもありました。 種子島ではJAXAのロケット発射場、千座の岩屋、西之表市立種子島開発総合センター=「鉄砲館」 今回の話題は「鉄砲館」種子島銃です。 写真はその銃に最も近いものです。 天文12年(1543年) 8月25日、 種子島に漂着した明国船に3人のポルトガル人が乗っていました。 種子島時尭( 第14代島主 )は、ポルトガル人が持っていた鉄砲を、2挺2千両の大金で手に入れ、製造に取り組みました。(2挺の銃のうち最後の1挺は西南戦争の際に焼失しています) <火縄銃の構造> https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/nihonshi/e/7/E7hinawajyu.htm より 火縄銃は弾丸と火薬を銃口から詰め込みます。 次いで、銃の側面についた「火皿」に火薬を落として、ここに「火縄」の火をつけ銃身内の火薬に引火爆発させます。 この時、引火・誤射を防ぐために「火蓋」をかぶしておきます。 撃つときには、この火蓋を開けて(これを「火蓋を切る」といい、戦い初めの意味となっています)火縄の火をつけるのです。 <銃作成上の困難> ①火薬の作成 銃に込める火薬から開発が始まります。硝石と木炭、硫黄の混合物でその組成と成型(粉状)に苦労があったようです。 ②銃砲の製造 種子島は砂鉄が豊富だったので、今の岐阜県関生まれの刀鍛冶八板金兵衛は「刀づくり」でした。 1543年の鉄砲伝来により鉄砲の製造(模造)を島主から命じられるのですが、どうしても作ることができないのが銃身底をふさぐ方法でした。 清掃のために底をねじ止めして取り外しができるようにする必要があったのですが、ネジそのものの概念がなく、その作り方に苦労します。 このねじが日本初のねじだったのでしょう。 鉄砲伝来といっても技術そのものが伝わったのではなく、2丁の銃と弾丸と火薬をみて、「これはすごい」とコピーを作り上げてしまい、その後の戦国時代により発展させた日本の職人の技術と藩の首長たちの慧眼に驚かされました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.06.06 22:11:24
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