カテゴリ:地域の歴史・伝承
大分の旅、2日目の昼からは中津へ。 今回の旅は、行くところを細かく決めていなくて、 次に行くところを、相談して決めるというスタイルになりました。 少人数なので、自由に、臨機応変に、 思っていなかったところに行けるという旅でもあったので、 それもまた、楽しいものです。 中津は、当初の予定に入っていなかったのですが、 中津に行きたいという人がいて、 宇佐の次は、中津へと向かうことになりました。 中津といえば、何といっても福沢諭吉の出身地。 福沢諭吉旧居跡を訪ねることになりました。 福沢諭吉が生まれたのは、中津藩の大坂蔵屋敷だったのですが、 幼くして父が死去したことにより帰藩し、 それから、19才で長崎に遊学するまでの幼少青年期を、 過ごしたのが、この家です。 木造藁葺き平屋建ての母屋と、 諭吉が勉強部屋として使っていたと伝えられている土蔵などが残されています。 また、旧居の敷地内には、諭吉のエピソードを紹介するパネルも 設置されていました。 他にも、 土蔵の話 刺客に狙われた話 など。 若き日の、諭吉の人となりに触れることができる演出ですね。 福沢の家は、13石2人扶持だったといいますから、 下級武士の家柄だったわけですが、 そうした中で、懸命に学問に励み、 やがて、大坂・緒方洪庵の適塾に入門。 たちまち、頭角を現して、幕末明治を代表する啓蒙思想家となって行きました。 諭吉旧居の隣には、福沢諭吉記念館があり、 ここでは、福沢諭吉の書・手紙・写真などの資料や遺品が展示されていました。 今年は、大阪で 「福沢諭吉展」があり、先月それを見てきたところだったので、 また、ここでも、福沢諭吉に出遭えた・・・、という嬉しい感慨がありました。 さて、福沢諭吉の旧居を出た後は、 中津城へと向かいます。 この城は、何回か当主が変わっていて、 最初に、ここに城を築いたのは、黒田如水(官兵衛孝高)。 その後、細川忠興が城作りを引き継ぎ、小笠原氏を経て、 江戸中期(享保年間)より奥平氏が藩主を務めていたということです。 中津城の天主閣と、手前左の建物が奥平藩主を祀った奥平神社。 この天主閣は、昭和39年に奥平氏と中津市により、建てられたものです。 実際には、中津城に天主閣は作られていなかったようで、 この建物は、いわば、観光のシンボルとしての模擬天主であります。 ところで、 中津の町は、蘭学研究がさかんだったところでもあります。 その中心人物だったといえるのが、9代藩主の奥平昌高。 江戸屋敷に、オランダ製品を集めたオランダ部屋なるものまで造り オランダ商館長とも親交を深めたというほどのオランダ好き。 オランダ好きが高じて、蘭学を学ぶようになり、 オランダ語の日常会話にも不自由しないまでになったと云います。 彼はもともと、薩摩からの養子で、彼の父も蘭学好きで知られた島津重豪でした。 共に、江戸中期の「蘭癖大名」の代表格であります。 昌高は、日蘭辞書を出版するなどして、 江戸期の蘭学隆盛に、少なからず影響を与えました。 その後、中津藩は、蘭学者を輩出しています。 福沢諭吉が育った背景には、こうしたことも影響しているのかも知れません。 さて、中津城天守に上りました。 中津城は、日本3大水城の一つに数えられているのだそうです。 なるほど、絶景です。 山国川の河口に位置していて、眼前には周防灘が見渡せます。 模擬天主云々は別として、 本来、黒田如水や細川忠興が丹精を込めて作ったというだけあって、 この中津城は、名城だったのだろうと思います。 いよいよ、大分の旅も、この中津城でおしまい。 2日間、旅をご一緒させて頂いた皆さんとも、ここでお別れとなります。 おかげで、今回も素晴らしい旅となりました。 感謝の念を抱きつつ、中津を後にして、帰途につきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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