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カテゴリ:カブラ
昨年の蕪 hcで カブラの種をかってきた さあ 今年も カブラ じゃんじゃん作ろう 日曜に種まきを開始だーーーー 09月08日 庭で種まきをしておいた 16potsx2=32pots 09月15日 発芽している ok 09月16日 畑に移動 g-22の畝に植え付けておいた 第二弾 09月15日 庭で 種まきをやっておいた 発芽したら また 畑に移動する 09月19日 発芽した 順調なり 09月23日 m-07の畑に移動した 10月05日 g-22の蕪 1か月がすぎて まあまあ 順調に育っている かぶらさん いい 感じになってきている 11月04日 やっと 2個 収穫をした まあまあ 大きくなりだしてきている 昨年は11月10日が 初の収穫 今年は 11月04日で 初の収穫 これから カブラさん 大きくなってきつつある 来週からも 収穫できそう 11月10日 2回めの収穫は3個 11月17日 3回目の収穫をした 5個 11月30日 4回目の収穫をした 6個 12月08日 5回目の収穫をした 5個 12月15日 6回目の収穫をした 6個 12月22日 7回目の収穫をした 6個 12月29日 8回目の収穫をした 6個 今年 01月05日 9回目の収穫をした 8個 01月12日 10回目の収穫をした 6個 01月19日 11回目の収穫をした 7個 01月26日 12回目の収穫をした 9個 02月01日 13回目の収穫をした 10個 02月09日 14回目の収穫をした 15個 02月16日 15回目の収穫をした 10個 02月23日 16回目の収穫をした 10個 そろそろ おしまいかな 今年の秋 hcでの カブラの種をかってきた いつもとおりの 聖護院のかぶら 9月より 種まきする予定 08月31日 庭で種まきをした 09月04日 発芽してきている 09月06日 畑に移動した G-03の畑の畝に植え付けた 第二弾の種まき 09月07日 庭でまた 種まきをしておいた 09月11日 発芽した 09月14日 畑に移動した g-7-09などに植え付けわしておいた 第三弾の種まき 09月15日 庭で種まきわしておいた 09月18日 発芽した 09月20日 畑に移動した m-07などに植え付けた 弾四弾の種まき 09月21日 庭での種まき また やっておいた 09月25日 発芽した 09月27日 畑に移動した m-06の畑に移動した 10月12日 かぶら 第一弾のもの かなり 大きくなってきている 10月19日 その後も かぶら 大きいものはおおきくなっている カブラもみえてきている 10月26日 その後 かぶら 大きいのが出てきている 収穫できそうだなあ 収穫できるのは 来月くらいかな まあまあ 順調なり 11月02日 初のかぶら 収穫をした 2個 11月09日 2回目の収穫をした 2個 11月16日 3回目の収穫をした 4個 11月17日 4回目の収穫をした 2個 11月22日 5回目の収穫をした 2個 11月29日 6回目の収穫をした 4個 12月06日 7回目の収穫をした 3個 12月13日 8回目の収穫をした 3個 12月23日 9回目の収穫をした 4個 12月31日 10回目の収穫をした 3個 01月03日 11回目の収穫をした 3個 01月10日 12回目の収穫をした 4個 01月12日 13回目の収穫をした 2個 01月18日 14回目の収穫をした 3個 01月24日 15回目の収穫をした 3個 在庫を調べてみた g-01 00本 g-03 00本 g-09 06本 m-06 05本 m-20 04本 m-07 03本 合計 18本 まだまだ ある 東日本大震災 3月11日発生 1月28日は既に3年と10か月と18日後となった 阪神大震災は、1月17日で発生から21年目に どちらも想定外ということで 既成概念の見直しが必要 武田さんのコメントを参考にしている 武田さんのブログ ------------------------------------------- 最期の一撃 第九話 アーリア人、動き出す 世界史の骨格はほとんどヨーロッパの学者が構築して、それを他国の歴史学者が使っている。だから、つねに「ヨーロッパの視点」であることは間違いない。それに明治維新以来、日本の学者はヨーロッパに「勉強」に行き、そこで学んだものをあたかも自分が作り出したもののように大学の講義で教えた。 ちょっと洒落た学術的な文章、特に文科系の論説などでは、かならずと言って良いほど、プラトンやアリストテレスのようなギリシャの学者から始まり、カントやヘーゲルのように近世のヨーロッパの学者の名前が出てくる。 「カントは・・・」で始まるのは私たちの学問がヨーロッパの視点で作り上げられていることがわかる。歴史分野でそれに異議を唱え、自ら体系化した歴史を書いているのは岡田先生ぐらいなものではないかと思う。別にアジアからの歴史にこだわる必要はないが、全世界的な視野での歴史はやはりアジアから出るのではないかと思う。 さて、人間の歴史、特に有史以来の人の振る舞いを見ると、なんといっても紀元前2000年から1200年にかけてコーカサス山脈北方(黒海とカスピ海の間)の草原地帯に住んでいたアーリア族の移動が大きな事件だった。移動を始めたのは、寒冷化、食糧不足などが原因とされているが、いずれにしても、アーリア人はペルシャ、トルコ、イランなどの中東地域、ギリシャ、ローマ、カルタゴなどの地中海国家、フランス、スペイン、ルーマニア、ドイツ、イギリス、フィンランドなどのヨーロッパ、ロシアのスラブ民族、中央アジアの諸民族、そしてインド人になったのだから、小さな地域から世界の半分ぐらいに移動して繁栄したと言える。 宗教も同じで、おそらく紀元前1000年ぐらいにアーリア人の中に「原始的宗教」があり、それが紀元前600年ぐらいに西からギリシャ神話、ユダヤ教、ゾロアスター教、そして仏教を生み、さらに後世にキリスト教、イスラム教に発展したので、世界のほとんどの宗教はアーリア系であることが分かる。 アーリア人の第一次(紀元前1500年前後400年)の移動後の彼らの歴史を見ると、1)肌が白く、2)背が高く、3)鼻筋がとおり、4)他の民族は自分たちより下位と信じていて、5)他人のものは自分のものという確信がある、ということでまとめることができる。 まず最初は、アーリア人がイラン、トルコ、ギリシャなどに侵入していくとき、「ドケドケ!」という感じで、自分たちが新しく侵入していくところにそれまで住んでいた人は皆殺しにしても別に良心の呵責など感じなかった。もともとギリシャあたりに住んでいた人は北から来たアーリア人に押し出されて地中海に逃げた。 インドでは新しく侵入してきたアーリア人が「肌の白いのが最上級」というカースト制を作り出し、支配を固定し、最上級の中からお釈迦様も生まれた。 なにしろ「他人のものは自分のもの」、「自分が正しいと思っていることは正しい」という厄介な信念を持っているので、戦争にはなるし、思想も強制してくる。ギリシャのポリスも戦いに戦いを続けたし、有名なマケドニアのアレキサンダー大王とペルシャのダレイオス大王のイッソスの戦いにしても、所詮、アーリア人同士の内輪もめである。 マケドニアがヨーロッパ、ペルシャが中東なのでなんとなくヨーロッパとアジアの戦いのように見えるが単なる内輪揉めで、それはローマとカルタゴの戦いも同じだ。 アーリア人の中にときどき、アレキサンダー、ハンニバル、シーザー、ピュートル大帝、ナポレオン、ヒットラーなどのように「他人の土地を多くとった人」を「大盗賊」と呼ばずに「英雄」と呼ぶ。これこそアーリア人の真髄なのである。 (平成27年1月18日)ふむふむ はた坊 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.01.28 01:51:43
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