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カテゴリ:海外旅行
チョルスー・バザールを後にし、タシケント地下鉄乗車体験に向かう。
地下鉄駅の手前から青のモスクドームを。 チョルスー・バザールの傍に16世紀に建てられた歴史的建造物であるクカルダシュ・マドラサ。 独立後に修復され、再び神学校として活動。 マドラサの隣の丘には15世紀に建てられたジュマ(金曜)・モスクが。 タシケント地下鉄路線図。 中央アジアでは最初の地下鉄。ソビエト連邦では7番目の地下鉄として、1977年に開業。 タシケント地下鉄の駅は世界の地下鉄の中でもかなり凝った装飾がなされていた。 地下鉄の駅に向かう地下通路。 以降は撮影禁止であると添乗員から。 ウズベキスタンでも有名な建築家や芸術家が駅の設計に参加しているのだと。 内装の装飾に使われている材料としては、金属、ガラス、プラスチック、花崗岩、 大理石、色ガラス、芸術用陶器、彫刻入り石膏などがある。各駅とも芸術作品と なっているとのこと。 チョルスー(CHORSU)駅から地下鉄に乗り込み、途中パフタコール(PAKHTAKOR)駅で 乗り換え、ムスタキリク・マイダニ(MUSTAKILLIK MAYDONI)駅で下車する。 ムスタキーリク広場(独立広場・Mustakillik Maydoni)に到着。 モノレールの線路の如きユニークな形のアーチ。 コウノトリのモニュメント。 ゾロアスター教の聖なる鳥であると。 左右のアーチ部にもコウノトリが。 コウノトリが今にも飛びだちそうに。 ウズベキスタン独立記念碑や戦死者を弔うモニュメントなどが建っていた。 地球儀のモニュメント。ソ連時代はスターリンの像があったのだと。 地球儀の下には幼子を抱く母子の姿が。 戦争へ行った我が子を思う母の像であると。 ウズベキスタンの庁舎。 ウズベキスタン国会議事堂。 ウズベキスタン歴史博物館。 ウズベキスタン国立博物館には考古学、歴史学、民俗学的な中央アジア文明の事物や 歴史の流れが、石器時代から時代順に展示されている他、かつて中央アジアで使用されていた 貨幣も展示されていると。 そしてナヴォイ・オペラ・バレエ劇場に到着。 1947年に完成した1500人も収容できる劇場で、6つの休憩ロビーは、タシケント、 サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの6地方のスタイルで 装飾されているのだと。 この劇場は、第二次大戦後にタシケントに連れてこられた日本人抑留者の強制労働によって 建てられたもの。 淡い茶色の落ち着いた感じの外観をしていて、玄関正面の大きな噴水が特徴的。 屋根の上の黄金の塔。 噴水が涼しげであった。 水が吹き上がると綿花に見えるようにデザインされているのだと。 旧ソ連政府は1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。 そのため大戦後、日本人捕虜を活用してロシア革命30周年に間に合わせることを命題とし、 建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣されたのだと。 隊長は永田行夫(当時25歳)であったと。 永田部隊は日本人の意地や誇りにかけてこの劇場を造ったと。 「歴史に残るオペラハウスを作るのだから日本人の誇りや意地にかけて最良なものを作りたい。」と。 1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の 建設に関わった日本人を称えるこのプレートを劇場に設置したのだ。 プレートには、こう刻まれていた。 『1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、 このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した』と。 レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月の革命30周年にあたる70年前、 日本兵たちが抱いた誇りは、ウズベキスタンのこの地で褪せることなく咲き続けて いるのであった。 その際のウズベキスタン大統領の指示は 「決して日本 人捕虜という表記は使うな。このプレートは永遠に続く。 日本とウズベキスタンは一度も 戦争をしたことがない。そこに『捕虜』があるはずがない」 というものであったと。 プレートは、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語で書かれていた。 劇場の完成から約20年後の1966年4月に、首都タシケントを 大地震が襲い、 市内の多くの建築物が無残に倒壊してしまったが、ナヴォイ劇場はその姿を 保ったまま 震災を乗り越えたのだと。 この地震をきっかけに、「日本人が建設に携わったから倒れなかった」という噂が どこからともなく広まっていったと。 そしてこれを契機に、日本人の建築技術の高さが語り継がれているのだと。 このプレートを見ながら感動、そして感謝の時間が過ぎていったのであった。 ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.11.02 08:04:51
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