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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

東小和田の交差点を過ぎて暫く進むと右手奥にあったのが『上正寺(じょうしょうじ)』。
浄土真宗の寺で、鎌倉時代の創建とのこと。



山門前の『親鸞聖人像』が迎えてくれた。



『鐘楼』



『上正寺の聖徳太子像』と『上正寺の旧寛永寺石灯籠』
上正寺には、茅ヶ崎市指定重要文化財の聖徳太子像と石灯籠がある。
この像は、聖徳太子が2歳の時に、東を向いて「南無仏」と唱えると、
手の中から舎利(釈迦の遺骨)がこぼれたという話をモデルにしたもので
「南無仏太子」とよばれると。
室町時代後期から、江戸時代初期頃の作と考えられていると。
寄木造り、玉眼嵌入。上半身は肌部は素木に古色仕上げし、袴は朱彩が施されている。
太子が自ら彫刻したという言い伝えもあると。




『本堂』。



『正覚廟』は、個人(家ごと)の墓地ではなく、上正寺有縁の方々の合葬の廟所(墓地)。
正覚廟の名称は、当上正寺が平安時代、下寺尾(市内)海円院に始まり、鎌倉初期、
当地へ移り(龍沢山龍徳院)無上正覚寺と改められた歴史に則ると。
現在の寺名は、本願寺第三代覚如上人下向の折 改められたものであると。



石灯籠は幕府の要職を務めた安藤重博が、第4代将軍徳川家綱の墓所(寛永寺厳有院)に
奉献したもので、のちに此処に移されたのだと。さすが将軍の墓所に建てられただけあり、
立派な石灯籠。
厳有院は東京大空襲で焼失したが、この石灯籠はここ上正寺に移されたことで難を逃れたのだと。



上正寺本堂ではジャズコンサートも行われるようであった。



『地蔵堂』
旧東海道に戻って、少し進んだ左側の店舗つきマンションの所を左に入った突き当たりに
地蔵堂が大小二つ建っていた。
大きな地蔵堂の中には『奉納 南無地蔵大菩薩』、『念佛講中供養塔』、『百万遍供養塔』と
刻まれた石碑も入っていた。また、地蔵堂の対面や後ろには石仏・石塔群があった。
いずれも説明等は無かった。



旧東海道に戻り左手にあったのが『高野山 真言宗 千手院』。
天王山神保寺と号していたようだが、現在は天応山と表記。
高野山真言宗の藤沢市感応院の末寺で、開山は元栄和尚。
元和8(1622)年6月11日ご入定をされたが、建立は永宝8(1680)年に
堅岸和尚によるものとなっていると。



『本堂』。
大正12年の関東大震災で伽藍は全壊し、平成21年までは仮本堂のまま過ごしたが、
再建計画が軌道に乗り、平成23年には、現在の本堂が落慶。
ご本尊は、千手観世音菩薩坐像。元和元(1622)年の頃より開山して以来、
約400年の法燈を受け継いでいると。 



千手院境内の稲荷明神(左)と閻魔十王堂(右)。
大山詣での登山安全を祈願するために、街道沿いまで出開帳していた歴史の有る、
閻魔十王(立象10体と脱衣婆)像を安置。
厄難消除のご利益の有る稲荷明神さま。小田原城主の眼病治癒で知られる、木食観正さまの石碑も
建立されていると。



『稲荷堂』



見事な石灯籠。



境内の石仏群。



そして旧東海道の反対側には『高野山 真言宗 山王山 観音院 廣徳寺』。
本山は和歌山県の高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)。
山号の「山王山」は以前本堂裏に山王山(さんのうやま)という山があった事から、
院号は御本尊の千手観音からこの名が付いたと。脇門から境内に。



『六地蔵』。



『本堂』はRC製。
創建は諸説あるが初代慶海が元和5年(1619)に現在の地、茅ヶ崎市小和田に開いたと。
御本尊は「千手千眼観世音菩薩」。



木造『山門』。



『四国八十八ヶ所お砂踏み』。
四国八十八ヶ所各霊場寺院の御本尊をお祀りし、各寺院より頂戴した境内の砂をそれぞれの
正面に敷き、それらを踏みながら礼拝していくことにより、四国八十八ヶ所霊場を巡拝されると
同じような功徳を積んでいただけるもの。
四国お遍路の要所札所の砂が四ヶ所埋め込まれたミニお遍路ができる
モニュメント的なものがあった。
我々二人は四国八十八か所巡りは既に昨年四月に結願済み。



『弘法大師修行像』。



『南無大師遍照金剛』と書かれた幟も。



『山王山 観音院 廣徳寺』石碑。



見事な屋根の鬼瓦?



山門を皇帝ダリア越しに。



再び旧東海道に。
日本橋まで(から)56Km。



暫く歩き菱沼歩道橋の手前右側には『牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡碑』が。
「徳川家康 は、慶長六年(1601)、東海道 に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。
その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。
藤沢宿 と平塚宿 の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。
立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように
呼ばれていました。 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ
専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。」



『東海道分間絵図』。
「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて
作成した詳細な絵地図。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが
丹念に描かれている。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。



『東海道分間絵図の現代語訳』。
小和田村から浜之郷村の間の地図。
曲がりの頂点近くに「ぼたもちちゃ屋」の文字が。



日本橋まで(から)57Km。



『東海道の松並木』。
「茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)
2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。
遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、
この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。
長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう」と。



『五十三次名所図会 七 藤澤 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)』
「東海道の南湖(茅ヶ崎市)の松並木の風景を描いています。
南湖は藤沢宿と平塚宿の間の立場(宿と宿の間の休憩場所)のあったところで、
京都に向かっていく中で富士山が左に見える「左富士」の名所の一つでもありました。
現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。」と。

「安藤広重 茅ヶ崎」の画像検索結果

茅ヶ崎市立病院の交差点を右折すると左手に『正覚廟』山門が。
曹洞宗東松山海前寺」。藤沢市内にある宗賢院の史料によると1591(天正19)年の創建、

茅ヶ崎村領主で旗本の丸毛権之蒸の菩提寺。広く塀を廻らし山門が建っていた。



山門前に石造仁王像が立つ。阿形像。



吽形像。



『六地蔵』。



山門右側の塀沿いに立つ石碑。
本村・海前時にある純水館の『震災追善碑』の碑。



石碑には「震災追善碑」と。



石碑には、
「天木栄一郎氏者岐阜縣古川町之人也當工場在勤中大正十二年九月一日際振古未曾有之
大震災工場全壊罹殃死之難也當時三百八十有余名之在勤者中不幸而獨為犠牲富春秋以
前余有望之身斃於是天災可惜行年廿有三
    大正十四年三月廿一日純水館茅ヶ崎製糸所建之」と。
『岐阜県古川町出身の天木栄一郎氏が、当工場在勤中、大正12年9月1日の未曽有の大地震
による工場が全壊によりお亡くなりになった。当時380名余りの在勤者の中で不幸にして
一方のみ犠牲になられた。(市史では3名となっている )
前途有望な青年の天災による死は誠に残念なことである。行年23歳。
                 大正14年3月21日 純水館茅ヶ崎製糸所建立。』




『本堂』前に『石灯篭』が二つ並ぶ。



右側の石灯籠。



左手の石灯籠。

海前寺の御朱印・アクセス情報(神奈川県北茅ケ崎駅)(曹洞宗)|ホトカミ

二代秀忠の菩提のため1651年に筑後久留米城主の寄進と、
九代家重の菩提のため
1761年に播磨国安志城主の寄進によるもの。



『鐘楼』。



境内の五輪塔と石仏。



『道元禅師像』



観世音菩薩像の右前に『摩尼車』が。



摩尼車とは、主にチベット仏教で用いられる仏具の事。
円筒形の部分を回転させると、内部に納められた経文やマントラを唱えるのと
同じ功徳が積めるとされている。



山門横に立つ大きな石灯籠。



この石灯籠は、台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提のため慶安4年(1651)
に筑後久留米城主が奉献したものと。



「海前寺」の前の道を西に進むと、右手の社の中に並ぶ石像・地蔵尊。



近づいて。



ここにも石仏が並ぶ。



「佐々木卯之助 供養碑」。



「佐々木卯之助 供養碑
享保十三年徳川幕府は、柳島相模川河口より藤沢片瀬川に至る海岸一帯に相州砲術調練場を
開設した。長さ百三十町、巾は海岸線より八町~十町の帯状の地域であった。佐々木卯之助は
大筒役と言って鉄砲方役人であり鉄砲場の管理責任者であった。
附近の住民は田畑は少なく貧困であった。立入禁止の砲術場内の荒地を開墾耕作し食料の自給を
計っていたが、佐々木氏はそれを黙認していたが、代官の検地によりこのことが発覚、天保六年、
八丈島遠島の刑に処せられ青ヶ島へ送られた。
明治元年十二月赦免となったが病気を理由に在島、明治九年十二月同島において死去、行年
八十二才と云う。
村民はこの恩義を後世に伝えるため追悼記念碑を鉄砲場縁りの地に建てている。
この碑は青ヶ島墓地にあったものを佐々木家の御厚意によりここに移し供養碑として祀る。
    昭和五十六年五月五日   
                                                     茅ヶ崎郷土会」



そして「海前寺」の北側のY地路の場所にあった神社。
その横には大木も鎮座。
茅ヶ崎市本村5丁目11。



朱の鳥居が。



正面から。



社を見る。



朱の鳥居には「正一位」と。稲荷社であろうが名前は??



そして『本村のタブノキ』。
タブノキは枝葉には粘液が多く、乾かして粉にするとタブ粉が得られる。
タブ粉は線香や香取線香の材料の1つ(粘結材)として用いる。
樹皮や葉は染料にいられる。材は、建築、家具などに使われるのだと。



市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。
小高い丘に位置し、地域の鎮守の目印となっていると。



                               ・・・​その1​・・・に戻る

                 ・・・​つづく​​・・・






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Last updated  2024.06.13 07:13:02
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