7424221 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

ナツツバキ、フェン… New! 隠居人はせじぃさん

東海道まち歩き (2)… New! オジン0523さん

【100円ショップのピ… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Headline News

Archives

Calendar

2022.04.20
XML
カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
​【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

「善福寺」を後にして次に訪ねたのが「柳島八幡宮」。
神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目3−10。



柳島八幡宮は柳嶋八幡宮とも書かれていると。
現在は鶴嶺八幡宮の兼務社で、当宮の御札は鶴嶺八幡宮で頂けると。
創立年代や由緒は不詳。御祭神は誉田別命。例祭は7月14日とされているが、これは浜降祭
(はまおりさい)が7月15日開催されるがその前日。
当社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭に参加する
一社である。
正面に石鳥居には、「大正拾五年九月吉日」、「復興新建氏子中」と刻まれ、信仰復興による
鳥居であることが分かるのだ。



扁額は「八幡宮」。



「柳島八幡宮 境内図」。



「八幡宮復興記念碑」。
神社は関東大震災で倒壊したあと、氏子の協力で一旦倒壊前の姿に再建されたが、昭和20年7月の
平塚空襲の際に再度全社有に帰した。戦後再び氏子らの努力で、拝殿、神楽殿、神輿などが
再建され、その際の記念碑であるとのこと。



左手に「手水舎」。



そして「拝殿」。
祭神:「品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけのみこと)。
   別名は「応神天皇(おうじんてんのう)」。第15代天皇、皇祖神や武神(弓矢神)。
   ※[八幡神]農耕神、海の神
御利益:出世開運、武運長久 他



右手に「道祖神」などの石碑群。



「鐘楼」。



「鐘楼」には「八幡宮」の文字が。



「参集所」。



「柳島八幡宮
現在の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇)てある。
・文政五年(一八ニニ年)
 鳥居が造られる。(鳥居の年銘による)
・天保十ニ年(一八四一年)
 『新編相模国風土記稿』に「十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ) 鎮守なリとある。
   (十羅刹女どは、鬼子母神と共に法華経の信仰者を擁護する十人の鬼神女のこと)
・嘉永元年(一八四八年)
 柳島の鎮守の社殿建築を、鎌倉郡村岡郷高谷村(現在の藤沢市内)の大工文蔵が総工費ニ十九両で
 受け、同年十一月十五日に竣工する。(藤間家資料による)
・大正十ニ年(一九ニ三年)九月一日
 関東大震災のため鳥居を含め全壊する。
・大正十五年(一九ニ六年)
 当時の区長の片野荘太郎は神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決める。
 大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡愛川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿に
 竣工する。
・昭和ニ十年(一九四五年)七月十六日
 太平洋戦争の平塚空襲の際に、全焼する。
・昭和ニ十四年(一九四九年)
 千葉県行徳(現在の市川市内)の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調する。
・昭和三十ニ年(一九五七年)十一月ニ十三日
 氏子をはじめ多くの方々からの寄付を得て、社殿を建立する。
 大工は石井幸三郎・府川篤、木彫師は江口裕康。
・昭和五十年(一九七五年)五月四日
 本殿を再建する。大工は石井幸三郎・府川篤、鳶職は、山口道雄。
 現在に至る。」



「拝殿」。
昭和五十年(一九七五年)五月四日に再建された と。



見事な彫刻。
中央は神功皇后、左は応神天皇を抱く武(建)内宿禰の姿であると。
三韓征伐と共に神功皇后に欠かせないのが、武内宿禰の存在。この二人は常にペアで彫られて
(描かれて)いるが、これがなんとも不思議な関係。
皇后は仲哀天皇の妃ですから、いくら早世したとはいえ仲哀帝と並んで描かれるのが本来の姿。
しかし、そういう彫刻、絵図は見たことがないのである。何故??
この彫刻は横浜住の江口裕康之の作品であると。



唐破風の下の懸魚の彫刻も。飛龍であろうか。



「本殿」の扁額「八幡宮」。



「本殿」を見る。



「拝殿」横の「庚申塔群」。



「庚申塔
庚申塔は、庚申信仰をともにする人たちによって建られた石仏の一つてす。
昔、庚申の日の夜は、人々は集まって眠らないで過ごしました。この夜に眠ると悪いことが
あると信じられていたのてす。
このような信仰を持つ人々はその後、自分たちの死後の安楽を願って庚申塔を建てるように
なりました。
庚申塔は現在、市内に百基近く見つかっています。
ここには三基ありますが、一番大きな塔は江戸時代初期の万治三年(一六六〇年)に作られた
もので、市内ては八番目に古く重要なものてす。
どれにも「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が彫ってあリます。
また、その一つには六本の腕を持った青面金剛も見られます。」



一番右の大きな塔は江戸時代初期の万治三年(一六六〇年)に作られたもの。
市内ては八番目に古く重要なもの。
「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が。



その左は六本の腕を持った「青面金剛像」。
下部には「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が。



「庚申供養塔」。
これにも「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が



「石祠」。



凹みには何があったのだろうか?



「道了大薩埵」と刻まれた石碑。
「道了大薩埵」は神奈川県南足柄市にある曹洞宗最乗寺の守護神。開山である了庵慧明の弟子で、
怪力をもってその開創を助け、のちに当寺を守護することを誓って天狗となり、白狐(びゃっこ)に
乗って飛び去ったという。後世、広く信仰を集める。道了権現 と。



丸石で出来た多くの石碑が並ぶ。



「本殿」の裏には巨木がニ本。



奥の巨木に近寄る。



「子宝の木」と。



「黄金」に彩られたものは「金精さま」と。



「この金精さまは
縁結び、子孫繁栄、長生不老、五穀豊穣、町内安全お願いして建立されたものです。」
「茅ヶ崎「タウンニュース」2011年1月21日号には
古くから子孫繁栄や五穀豊穣の霊験があるとされる金精様の木像が柳島八幡宮(柳島2─3─10)
に奉納された。
贈ったのは同八幡宮境内の清掃活動を行っている柳島長命会のメンバーなど地域の有志7人。
製作したのはメンバーの山口次縕(つぐお)さん。昨年11月頃に話が持ち上がり、山口さん宅で
育ったヒメシャラの木を使って1週間ほどで完成させた。」と。



「金精さま建立(入魂)の由来について
、動機
柳島長命会は月の第一土曜日に柳島八幡宮の境内を清掃している。その折に、境内の大樹の穴の
形状から子宝の話が生まれた。神代から男と女の結びつきが世の摂理である、そのことが金精様を
一緒に祀る動機となった。
、祈願の目的を明確にした事
(一)、縁結び・子孫繁栄
現代の世相はとかく縁が薄い社会になりつつある、また.草食系男性の出現の世相ときく。経済・
社会情勢等から少子時代でもある。かってのようにもっと社会の結びつきを深め、子宝に恵まれて
こそ社会の弊栄につながると確信している。
ー日本の将来人口減少が問題になりつつあるー
(ニ)、長生不老
高齢社会に突入して、世相は暗くこの先幸福な生活が得られるか不安である。
ただ漫然と歳をとるだけでは長寿ではない「心身ともに健康でいたい。最後は
ピンピンコロリが人生終焉の願いである。
(三)、五穀豊穣・町内安全
農作物だけでなく、総てが豊かな世の中、それが願いある。ただ、物が豊かでも心が貧しくては
淋しく、暗い社会である。
地域全体が安らぎの場となり、明るく楽しい集落を願うものである。
、正論で行くことが大切
金精さまのようなシンボルは、とかく、エロチック、ポルノとか卑猥としてプラックユーモアの
世界で扱われる。一つ間違えると誤解や不真面目から像のいたずら等が起きる事が懸念される。
このような見方や考え方を質すために祈願の目的を明確にした。
皆さんのご理解とご協力をお願いしたい。
、祈願者
柳島長命会の有志等
代表・青木昭三、小川 勝、亀井常男、外浜山吉
藤間一正、山口松男、山口次縕
金精さまは、柳島八幡宮へフクロウ像寄進の関係もあり山口次縕(柳萌)が作成した。
、宮司
祈願の目的を了解、賛意を得た。
東北、北関東、伊豆、中京地区等には金精神が祀られている、平和で豊かな世の中を願って
建立は是とする。神奈川県下では初めてと思う。
平成ニ十三年元旦建立、入魂。」



「​神輿殿​」👈リンク。



御神木の「スダジイ」。



「折れた鳥居の残骸で作られたモニュメント」。



近づいて。
左の柱には「文政五年午四月十五日建之」の文字が確認できた。
氏子の総意で建設されたもので、関東大震災で倒壊したまさにその鳥居である。



「折れた鳥居
この折れた鳥居は、大正十ニ年九月一日(一九ニ三年)の関東大震災の被害の状況を示すものです。
当時の柳島地区は世帯数一六一戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは三戸だけでした。
地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります
折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内ては数少ない貴重なものの
一つです。」



境内左手に「柳島自治会館」。



正面から、奥に「神輿殿」。



「​藤間柳庵之碑​」👈リンク。
藤間柳庵(とうまりゅうあん)はここ柳島村の名主を務めた藤間家13代当主の藤間柳庵。
家業の廻船業の傍ら、文人として幕末の社会情勢を細かに記録し、多くの著作を残している人物。
1853年にペリー率いる東インド艦隊が入港すると、その3日後には浦賀に行き、丘の上から
望遠鏡で黒船を見て、人々が不安で逃げ惑う様子を記していると。



「拝殿」、「鐘楼」を望む。



「神輿殿」、「拝殿」、「鐘楼」を正面から。



                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.05.24 12:50:38
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.