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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.04.25
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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
​【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

「旧相模川橋脚」を後にして、更に相模川方面に向かって進む。
「今宿」交差点を右折して進むと路地の角にあった「小祠」。
神奈川県茅ヶ崎市今宿534−1。



逆に国道1号を渡り、東海道線近くまで200mほど歩くとあったのがこれも「稲荷社」。
「二ツ谷の稲荷」と呼ばれていると。



「稲荷社」の社殿。



国道1号に戻り平塚方面に進むと右手にあったの以前に訪ねた「​上国寺​」👈リンク。
神奈川県茅ヶ崎市今宿488。



更に進むと、同じく以前訪ねた「​信隆寺​」👈リンク が「産業道路入口」交差点手前の
右手にあった。



「産業道路入口」交差点を直進する。



更に進むと、道路右側に小さな祠があった。
神奈川県茅ヶ崎市中島1090.



「茅ヶ崎中島 銅葺屋根 男女双体道祖神」と。



更にその先にも小さな祠が。
神奈川県茅ヶ崎市中島



「茅ヶ崎 中島 赤屋根の祠 男女双体道祖神と道祖神」。



そしてその先の「新田入口」交差点まで進み、横断歩道を渡り引き換えして右折すると
前方にガードが現れた。
煉瓦の橋台の上に橋桁が架かり、そこを走る東海道本線の線路が馬入川橋梁に続いていた
のであった。下をくぐる道路がいまだ現役で使われ続けているのであった。
高さ制限2.0m、幅もその程度しかなかった。
車のすれ違いはおろか、歩行者と自動車のすれ違いさえ難しそうなのであった。



JR東海道線の「中島川ガード」。
手前のコンクリート桁は昭和40年(1965年)。両側に迫る煉瓦積みは明治20年(1887年)に
単線で開業した際の橋台、その次の「トンネル」の中には明治33年に複線化した際の橋台の
遺構だと思われる煉瓦が見えるのであった。



途中、一段低くなった線路下部分は強度アップのためコンクリート補強をしたのであろうか?



レンガ積みは明治20年(1887年)に単線で開業した際の橋台、その次の「トンネル」の中には
明治33年に複線化した際の橋台の遺構だと思われるレンガが見える。
このレンガ部分の横壁は車の通行確保のために一枚分は両側とも全体に削られていた。
そしてかつてはこの間に短い鉄橋が置かれていたのでしょう。現在、上部の鉄橋部分は
なくなっていた。



カメラの向きを縦にしてハツリ部分を。



レンガ積みのトンネルは終わり、空が見えてその先に再びコンクリート製の短いトンネルが。
一番南側のこの上部の線路は東海道本線の下り本線である。



「お願い
自動車等が衝突したのを見た方は、至急ご連絡下さい」と。
先程と同じ内容のパネルであるが。



前方のコンクリート桁は昭和40年(1965年)に設けられたもの。



南側に出て振り返る。下り線ガードの奥に煉瓦橋台が見えるのであった。



自転車以外の車両は7時~9時の間は国道1号からの一方通行であると。



そして次に訪ねたのが「八坂神社」。
神奈川県茅ヶ崎市中島1133-8付近。



「社殿」。
「八坂神社」は日枝神社の裏手にあり、神社役員は両社を兼ねている。
『風土記稿』に「山王社 村の鎮守なり、大住郡馬入村連光寺持」とある。
別当寺を他村の寺院がつとめているのは珍しい事例であるようだ。
祭神は大山咋命(現在の日吉大社東本宮の祭神)。近江から来て中島を領地した山岡景長が
慶安2年(1649)に祭ったと地元に伝えられているが、景長はすでに文禄4年(1593)に亡くなって
いるので、伝承に混乱があるようだ。
なお、八坂神社は『風土記稿』にも明治時代の地誌類にも記録されていないのだと。
拝殿に掲げられている「山王」の扁額には領主景忠(元禄11年:1698)の名前がある。



「社殿」正面。



扁額は「山王」。



「八坂神社」の隣にあったのが「茅ヶ崎市消防団10分団」
神奈川県茅ヶ崎市中島1134。



その斜め前にあったのが「忠霊塔」。



裏面には
「日清日露及び大東亞戦役等に際し戦歿せられたる諸勇士の英魂を永遠に慰霊せんが為
黨部落民の総意に依り茲に忠靈塔を建立し其の偉烈を仰ぎ後世に傳えんとす。
昭和三十ニ年九月二十三日 中島部落」と。



戦死及び戦没者28人の氏名が刻まれています。その内訳は、日清戦争1人、日露戦争3人、
支那事変1人、大東亜戦争21人、平塚空襲による死者2人です。空襲死亡者2名を除く戦死者の
年齢は、20歳1人、22歳1人、23歳1人、25歳4人、26歳2人、27歳5人、28歳4人、29歳1人、
32歳3人、35歳1人、36歳1人、37歳1人、年齢不明1人です。故国を離れた中国、旧満州、
フィリピン、ビルマなどでの戦死です。
また、昭和20年7月17日の平塚空襲による死者は布川浅次郎、根岸ツルさんです。



次に訪ねたのが直ぐ近くにあった「浄林寺」。
神奈川県茅ヶ崎市中島1052。



「常林寺本堂新築記念碑」。



「掲示板」には
「善き行いに善き心
よいことをすれば、心が美しくなります。そしてその心こそ次のよいことの
原動力になるのです。」と。



「本堂」
浄土宗の寺。
本尊:阿弥陀如来
『風土記稿』中島村の項に
「浄林寺 故詠山山王院と号す、浄土宗(大住郡須賀村海宝寺末)天正四年(1576)城蓮社厳誉起立
本尊阿弥陀を安ず」とあります。院号を「山王院」とするのは、鎮守の日枝神社(江戸時代は
山王社)が隣にあるからだと。
「浄林寺は須賀の海宝寺の隠居寺だった。海宝寺の檀家は3千軒と言われる。浄林寺が明治時代に
海宝寺から独立するとき、中島在住の8軒の旧家が海宝寺檀家を離れ浄林寺檀家になった。」と。



「本堂」前に「勢至丸像」。



近づいて。



「此の尊像は浄土宗を開宗された法然上人の幼少の頃の勢至丸像です。長承ニ年四月七日生誕にて
昭和五十七年降誕八百五十年生地は美作国久米南修稲岡庄、現在の岡山県久米郡南町
(岡山駅より津山線誕生寺駅)でその屋敷跡は誕生寺 父は豪族漆間時国母は泰氏の出であり
法然上人の没年は釈尊と同じく八十歳です。
叔父観覚得業の菩提寺に九歳の時に行かれた十五歳で比叡山にて修行剃授戒され、法然上人の
御墓は浄土宗総本山知恩院本堂横の山◯◯◯◯◯あります。」
法然上人は歴代天皇より大師號を七つも贈られました。」



「水子地蔵尊」。



「本堂」に近づいて。



扁額「故詠山」。



内陣には御本尊の「阿弥陀如来」。



ズームして。



永代供養墓であろうか。「倶会一処」と刻まれていたが。



墓地を望む。



「歴代上人之墓」。



そして「浄林寺」の前にあったのが「日枝神社(ひえじんじゃ)」。
神奈川県茅ヶ崎市中島1134。



石鳥居を潜り拝殿に向かう。



狛犬(阿形像)。



狛犬(吽形像)。



「拝殿」。
日枝神社は、神奈川県茅ヶ崎市中島にある神社。中島日枝神社とも。
安土桃山時代の天正19年(1591年)、山岡景忠が近江国(滋賀県)から関東に来て旗本となり、
中島村を与えられた。当社地近辺には景忠の陣屋があったと伝えられている。中島の鬼門除として、
おそらく日吉大社から大山咋命を勧進し、山王社として創立された。
以来中島の鎮守として崇敬され、五穀豊饒と家内安全が祈願されてきたという。
境内には、樹齢200年あまりタブノキがある。
当社の例祭は7月第3日曜日。当社は毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜
降祭(はまおりさい)に参加する一社である。
境内には他に、明治18年(1885年)銘のある駒型文字道祖神や、大山不動尊を祀っている。
なお当社は、市内南湖の八雲神社・金刀比羅神社・住吉神社・御霊神社などを兼務している。
【ご利益】五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、地域安全。



見事な龍の彫刻。



扁額は「日枝神社」。



「鐘楼」。



鐘楼には「山王大権現」と。



庚申塔群。



「六臂青面金剛像」。
あまりメリハリのない彫りで、腰の左右に小さな文字で紀年銘が、その下に薄く二鶏がある。
享保八年十一月吉日の江戸中期の建立にしてはやや迫力に欠ける石仏であった。



「神輿蔵」。



「拝殿」の後ろに「本殿」を見る。



御神木の樹齢200年あまりのタブノキ。



「道祖神」の祠。



「道祖神」碑が内部に鎮座。



道路に面した場所にあったのが「不動堂」。



「大山不動尊」。



「日枝神社」を進み更に南に進む。
ビ二トンでは何が栽培されているのであろうか?



茅ヶ崎市の下水マンホール蓋を再び。
烏帽子岩とカモメをデザイン。
烏帽子岩は平安時代の貴族がかぶっていた烏帽子に似ているところから
この名で呼ばれている。「ちがさき おすいT-14」の表記。



                              ・・・​もどる​・・・



                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.22 20:03:23
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