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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.05.08
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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
​【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

この日は4月17日(日)、3回目の「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」にJR相模線の
「香川駅」からスタートする。



線路に沿って進み、踏切を渡らずに反対方向へ。
香川 浄心寺前の「双体道祖神 」その横に五輪塔部位の積み重ねが。
茅ヶ崎市香川5-9-23 



双体神祇道祖神」に近づいて。



この日の最初に訪ねたのが歴史のある日蓮宗寺院「浄心寺(じょうしんじ)」。
神奈川県茅ヶ崎市香川5丁目8−1 。



「浄心寺」は通称「七面さん」と呼ばれている と。
「開運 七面大明神」碑。
七面天女は、法華経行者の守護神・鬼子母神(きしもじん)の子どもにあたる十羅刹女
(じゅうらせつにょ)の一人であるとも、八大龍王の孫娘の一人にあたる龍神だとも
いわれている。高座の説法に参席していた見知らぬ美しい女性に向かって、日蓮上人が
「本体をあらわしなさい」と言うと、「私は釈尊の使命を受けて大法守護のため派遣された
七面天女です。これより七面山に住んでお力になりましょう。」と答え、龍の姿になって
飛び去って行ったということです。
以後、七面天女を末法の鎮守としてお祀りしたと伝えられ、七面山敬慎院としてその霊験を
あらたかにしているのだ と。



題目碑「南無妙法蓮華経」。



掲示板。



「熊沢山 浄心寺」は、文禄4年(1596年)に浄心院日敬上人により開山された日蓮宗の寺院で、
通称「七面さん」と呼ばれている。そして香川村の熊沢氏によって開基 と。
「熊澤酒造」と関連のある人物なのであろうか。
元々寺・寺院は仏教における修行の場であり、俗世から切り離れた世界だったため、山の中に
寺院を作ることが多かったので、山を切り開くということで「開山」というようになった。
開山は初代住職で、開基は寺院の創始にあたって経済的支援を行った人、スポンサーとなった
人のことであるようだ。
ただし、宗祖を特に「開山」と呼ぶ宗派もある。浄土真宗では、宗祖とされる親鸞を「開山」
(「御開山」)とも呼ぶことから、末寺の創始者を「開基」と呼んで区別する。
曹洞宗では、道元を「開山禅師」と呼んでいる。


「浄心寺」の入口門。



「熊沢山(くまざわさん)」。
 


「浄心寺」。



「本堂」。入口門とは向きが異なる「本堂」。



左手にあった石塔。



「南無妙法蓮華経 高祖 日蓮大菩薩」と。


三橋勘重郎の「供養塔」。
名主で農地整備などに尽力したが、飢饉の折に領主に直訴して処刑されたのだと。
勘重郎については、この供養碑のほかは記録も無く、詳細は不明とのことである。香川の古老の
伝承ということになっている。それによると、勘重郎は、寛政二年(1790)ごろの名主であった。
当時の香川は、本間忠左衛門季賢の知行地で、石高は三四七石二斗六升であった。年貢は米で
納めることになっていた。ここ香川は開村以来水利のきかない土地で雨がなければ収穫皆無もあり、
無残な生活に陥った。この頃は、毎年不作が続き、名主の勘重郎は年貢の軽減を奉行所に
嘆願したが、聞き届けられず、単身江戸に赴き、強訴に及んだ。その結果、願いは通ったが、
強訴は御法度。勘重郎は、財産没収、死罪になった。寛政五年三月(1793)村中総施主という
異例の供養を行い、石塔を建ててねんごろに慰霊の式をあげたのが、今に残る供養塔の由来と
されている。
旱天に一滴の雨さえない天水場の嘆きはその後も続き、昭和六年(1931)でさえ未曾有の旱魃に
襲われ、田が割れて植え付け不能となったため、やむなくまずい外米何百俵かを部落で
一括購入して凌いだことさえあったといわれている。



供養塔正面には
「俗名三橋勘重郎
妙法実相院寿仙日量霊 村中世話人惣施主
十二月二十九日」と。



右側面には
「寛政五癸丑 村澤山十八世日啓代
奉誦久遠十八万巻為菩薩 
三月朔日 村講中面々祈祷」
                 


左側面には
「本間氏 為先祖御菩提
      御武運長久」
の文字が刻まれていた。



こちらにも題目碑。



「南無妙法蓮華経 日蓮」碑。



石祠。



「本堂」を正面から。



「常香炉」。



「伏見稲荷大社」と。



「浄心寺」を後にし、茅ヶ崎市香川5丁目に住宅街を北に向かう。
正面に橋が現れた。



川の名は「駒寄川」。



橋の名は「中通橋」。



上流側を見る。



下流側を見る。前方の橋の先で「小出川」に合流する。



そしてJR相模線の踏切を渡る。「下寺尾第一踏切」と。



JR相模線の電車が通過。



その先にあったのが「駒寄川右岸調整池」。



この日は調整池には水はなく。
調整池とは開発に伴って失われた保水機能を補うため、雨水を一時的に貯めて河川への
雨水の流出量を調節することにより洪水被害の発生を防止する施設。



そしてこちらが「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校」の現在の校舎。



「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校」。
1963年に設置された。高等学校の略称は北陵(ほくりょう)。
私が中学2年生の時に開校したのであった。



これは仮設校舎であるようだが・・・・。
理由は、明日に。



更に東に進むと左手の高い場所にあった「稲荷社」。
神奈川県茅ヶ崎市下寺尾343。



石段を上り鳥居の前から「社殿」を。




                              ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.05.22 19:47:53
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