|
カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次
「長福寺」を後にして、本堂前を境内墓地に沿って南に進むと三叉路があった。 ![]() そこの少し小高い場所に庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っていた。 ![]() 右側から 「青面金剛庚申塔 寛政11年(1799)11月6日 山伏角柱 日月・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿 右側面「講中連名」・7人の名 左側面「寛政十一己巳十一月六日」・8人の名」 ![]() これも「青面金剛庚申塔 享保13年(1728)12月8日 唐破風笠付角柱 日月(手持)青面金剛像(合掌・六臂)・三猿 右側面「庚申講中 菱沼村」 左側面「享保十三戊申天十二月八日」 ![]() 「馬頭観世音」 嘉永七年(1894)。 ![]() 墓石であろうか。 ![]() 「三猿庚申塔 延宝7年(1679) 舟型 「奉□就庚申」・三猿 正面右側「延宝五天」」 ![]() 首の部分が補修されたと思われる「地蔵菩薩」。 亨保十五年(1720)。 ![]() 一番左にあったのも墓石であろう。 反対側にも石碑が。 最近は道路整備などで多くの石仏が移設されているが、以前は四つ辻、三つ辻に立てられることが 多かったのだ。道の辻は自ずと人が多く行き交う。昔の人はこのような所には霊魂・亡魂も集まる と考えて、それらを鎮めるために石仏を建てたと民俗学では解説している。 長福寺南のこの一画は、かつての石仏の祭り方を今もわずかに留めている場所。 ![]() 「双体神祇道祖神 天明二年(1782)」 オースティン・ニコルズ社が製造するバーボン・ウイスキーの「WILD TURKEY」の 飲み掛け?の瓶が奉納されていた。 ![]() そして茅ヶ崎市松林3丁目の路を進むと、大きな敷地の旧家が点在しているのであった。 ![]() こちらは屋根瓦の付いた長い塀を持つ農家であろうか。 ![]() そして「室田通り」に合流し、ここを左折。 ![]() 次に右折して「松林通り」を進むと水路の如き川が路地の先に現れた。 ![]() 近くに石碑群があった。 ![]() 「室田橋」と刻まれている石碑。 ![]() その横に、道祖神が。 ![]() 文字道祖神 茅ヶ崎市室田2-19。 ![]() 石仏。 ![]() 「昭和二年十二月落成」と。 ![]() 別の場所から右側に石碑群を見る。 ![]() ここが「相模川左岸幹線用水路」・「千ノ川暗渠水路」の出口。 地図上ではここから千ノ川が始まっているのであった。 地図で千ノ川を下流へ辿ると小出川へ合流し最後は馬入川(相模川)へ流れ込んでいるのだ。 相模原市南部の相模川から水を取り入れ、河口の茅ケ崎市域まで相模川東側の624ヘクタール もの広大な水田を潤すのが相模川左岸幹線用水路。用水と排水のネットワークで、太平洋戦争前の 1940年(昭和15年)に完成し、今年で82年目を迎えた。 ![]() そして次の目的地の「永昌寺」に向かって北に進むと右側にあったのが エッグダモンTOTO(株)室田寮。 ![]() 左手には楽器店「パプリカミュージック」。 ![]() そしてスマホに従って進むと正面にあった石碑。 ![]() 「畜霊供養碑」と刻まれていた。 ![]() 廻り込んで「永昌寺」の山門へ。 神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15−44。 ![]() 寺号標石「禅宗 龍澤山 永昌寺」。 ![]() 庚申塔群。 ![]() 「青面金剛像 「文化5年(1808)6月 板駒型 月日・青面金剛像(羂索/人・六臂)・三猿 右側面 3人の名 左側面「文化五年 辰六月吉日」・4人の名」 ![]() こちらも四臂青面金剛像か。 ![]() 地蔵尊。 ![]() 山門を潜り境内へ。 ![]() 正面に「本堂」。 曹洞宗 龍澤山 永昌寺(りゅうたくさん えいしょうじ)。 ![]() 「本堂」に近づいて。 ![]() 扁額は「永昌禅寺」。 ![]() 歴代上人の墓地。 ![]() 建設中の納骨堂? ![]() 内陣。 ![]() 反対側から。 ![]() この幾何学紋は?輪宝紋に似ているが。 ![]() 「本堂」を斜めから。 ![]() 「山門」を境内から。 ![]() 「山門」横の石祠。 ![]() 「本堂」と「寺務所」を振り返る。 ![]() 寺務所を見る。 ![]() 「永昌寺」を後にして「室田通り」を北に向かうと竹林の中にあった神社。 ![]() 鳥居には「正一位」と。 ![]() 石祠。 神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目3−6付近。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.06.07 23:05:16
コメント(0) | コメントを書く
[茅ヶ崎市歴史散歩] カテゴリの最新記事
|