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カテゴリ:国内旅行
次に訪ねたのが「東京理科大学 13号館」・「森戸記念館」。
新宿区神楽坂4丁目4−4。
内部には機器展示やカタログ展示が行われていた。 また、昔の神楽坂の写真や版画、装着品などの歴史や文化に関する品も展示されて いたのであった。 玄関ホールには、宇宙飛行士のキャサリン・ケイディ・コールマン氏の記念品や、ガラス工芸 作家のジョジュ・シンプソン氏の宇宙をテーマにした作品など、森戸氏のコレクションが 展示されていた。 ガラス製の地球儀。 ここにも。 宇宙飛行士のキャサリン・ケイディ・コールマン氏の言葉、 「Earth is the site of our planet as beautiful and ever-changing sphere.」 『地球は、美しく絶えず変化する球体としての私たちの惑星である。』と。 大小様々な、ガラス球体が展示されていた。 宇宙に想いをはせた美しい絵画も。 1階には童話や絵本、子供向けに書かれた理科に関する図書など、約1000冊を収蔵すると。 「坊っちゃんとマドンナちゃんのこども絵本館」も併設されていた。 図書棚の上の壁には様々な展示物が。 「神楽坂の歩み」-1。 神楽坂は、東京都新宿区の北東部にある地区で、JR飯田橋駅付近の牛込見附から西方の 山手台地に上る坂の名が町名になりました。 神楽坂は、徳川家康の江戸入府前から町が形成されていたといわれています。江戸時代になると、 坂沿いは武家地や寺町となり、寺の縁日から賑わいの地、さらに繁華街・花街へと発展しました。 神楽坂の歴史は次のとおりです。 1628年頃、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領しました。 3代将軍・徳川家光の時代に、牛込御門と酒井家下屋敷を結ぶ形で神楽坂通りが開通しました。 明治期には、夏目漱石も通っていたという「地蔵坂」に寄席がありました。 大正から昭和初期にかけては「山の手銀座」と呼ばれるようになり、東京の盛り場として 賑わいました。 神楽坂という名前は、この坂で神社が奏でる神楽の音が聞こえたことに由来します。 どこの神社の神楽なのかは、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社など諸説あり定かでは ありません。 「神楽坂の歩み」-2。 「神楽坂文芸地図」👈拡大リンク。 「五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵國牛込區神楽町近傍」👈拡大リンク。 様々な地図やパンフレット。 「神楽坂まっぷ 神楽坂あれこれ」👈拡大リンク。 「地図が語る 神楽坂」。 「地図が語る 神楽坂 江戸時代の地図は、「切り図」で、版木を彫って刷られました。明治時代に、海外の測量法や 印刷技術が導人されると、行政、陸軍、郵便など、目的に合わせた精緻な地図が作られるように なりました。大正・昭和になると地図は、より身近なものとなります。商店会、企業やお店が、 工夫を凝らし、多様な表現を用いたことが見て取れます。 今回は、明治初期の地図、関東大震災の災害地図、震災復興調査地図、戦後の再開発計画図の ほか、神楽坂通り商店会、学校・銀行・お店などが、私的に作った様々な地図をご紹介します。 ご注目いただきたいのは、神楽坂青年会が制作した地図。 この地図が、「神楽坂情報系地図の元祖」です。 情報と共に地図のデザインも変化してきました。よりシンプルに、或いは、より詳しく ・判りやすく・より楽しく・魅力的に・多様性を持って。過去に創られた優れた地図から 学ぶことで、神楽坂は、これからも様々な地図を生み出していくことでしょう。」 「神楽坂情報系地図の元祖」👈詳細リンク と言われる地図。 多くの芸者・芸妓さんのプロマイド写真が並んでいた。 「昭和30年頃の神楽坂、1954年に作成された芸者番付で前頭に選ばれた夢太郎さんの艶すがた」 近づいて。 近づいて。 「昭和初期の神楽坂芸者はプロマイドを作り、人気投票を行いました。」 集合写真。 「神楽坂通り」に出て、石畳の美しい「酔石(すいせき)横丁」を見る。 「酔石横丁」沿いの建物の壁の美しいタイル模様。 見事な石畳の先、右手には居酒屋「伊勢藤」。 向かいには「ブレッツカフェクレープリー」。 「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.10.30 17:24:55
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