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カテゴリ:つぶやき、人間関係
首都圏に住む小中学校時代の幼なじみが帰省するというので、
幹事役の中学時代の友人から声がかかり、市内の居酒屋で三時間ほど旧交を温めた。 誰が来るのか確認しないままに行ったのだが、 メンバーは男四人、女三人の計七人だった。 帰省したNは、北大を卒業後外資系企業で働いていたのだが、 昨年の誕生日で定年となり、現在は充電期間中。 外資系企業で働くということは、生粋の道産子というか、 彼に言わせると「北海道の土着民」という 田舎育ちにはストレスが大きい日々だったようで、 50代半ばからストレス性の身体的な変調に苦しみながらの日々だったようだ。 その治療の経緯で東洋医学に助けられ、四月からはそちらの勉強をするという。 幹事役の土着民の一人Oは、定年後も同じ企業で働いている。 若干給料は下がったようだけれど、仕事自体は慣れていることだし、 責任は軽減し気楽だし、奥さんも喜んでいるという。 4人の中ではエリート土着民Kは、道職員の定年を待たず、 みんなに言わせると「天下り」での仕事をしているようだ。 でも、彼ならば天下りでもきっと周囲も納得できることだろう。 もう一人、三月まで公務員のN2は、定年後はしばらくのんびりしたいと言っていた。 女性群3人は、もちろん土着民なのだが、 結婚、子育てを終え、今は「おばあちゃん」として それぞれのんびりした時期を迎えている。 3人とも夫は定年後それなりに働いたりしてくれている(私だけは「いた」)ので、 経済的にもさほど心配はないのだ。 かつての少年少女が集まると、話題は当然のことだが思い出話と、 それぞれが持っているかつての友人たちの消息話。 前置きが長くなってしまったが、今日書こうと思ったのは、 かつての少年少女の生育環境とその後のことである。 私たちの育った町は、純農村地帯に戦後自衛隊の駐屯地ができたという町。 今回集まったのは、その中でも農村地帯の子ども達6人と、 駐屯地の職員の子が一人。(自衛隊員ではない) 私たちの小中学校の子どもたちは、 自衛隊関係者3~4割、農業・商業その他が5~6割というところだっただろうか。 私たちの学校区には、自衛隊の幹部官舎もあり、その師弟も結構いたのである。 私は友達の親の職業にはあまり関心もなかったのだが、 自衛隊の子どもたちは転校生で、ほとんどはとても勉強もでき垢ぬけていて、 「別世界の家庭」のような感じはしていた。 彼らは勉強ができたので児童会や生徒会の役員になる確率が高く、 そこそこ勉強ができたような今回のメンバーは、 土着民代表みたいな感じで、彼らと活動を共にすることも多かった。 今回昔話を聞いて驚いたのが、その幹部の子ども達の家庭環境である。 特に幹部の人たちは、親が大卒であることが多いせいか、 息子たちもそのレールに乗ることが当然と考えていたらしい。 特に、女の子たちから「王子様みたいだね」と言われていたТの母親は、 猛烈な教育ママだったようだ。 当時から何となくそんな感じはしていたけれど、 彼と親しかったNやOの今回の話には、45年前にもそんな親がいたんだと、 あらためて驚いた次第だ。 同じような環境(教育ママ支配下)にあったあと二人の消息も聞いたのだが、 彼らもまた、親の支配の中で我々土着民とは全く違う苦労をしていたようだ。 ちなみにその3人のその後は、母親が息子の将来の幸せを信じて努力したことが、 必ずしも報われているとは言えない。 その3人は、当時の北海道内のエリート校と言われた札幌南高校に、 あの田舎の中学校から合格している。 だから、中学校での成績がトップクラスであったことは間違いがないだろう。 今回集まった4人の男性は、 自宅から通学できる札幌の高校に進学している。 私たちの時から高校は「大学区制」になったので、 成績の良い男の子は、気づけばドーッと札幌の高校に進学していたのだ。 というわけで、札南に進学したら、その後エリートコースに乗るんだろうなと 私は漠然と思っていた。 しかし、人生はそう単純ではない。 ガリガリの自衛隊信奉者であったらしいIの父親は、札幌南高校への進学を許さず、 中学卒で進学できる陸上自衛隊少年工科学校に進学させられた。 私は彼が札幌南に合格したことは知らなかったが、(別のクラスだったので) 彼が自衛隊員となることにはとても違和感があり驚いた。 そんなタイプではなかったからなのだ。 結果として、多分色々あったのであろうが20代半ばで彼は自衛隊を退官し、 民間企業に就職したのだが、その後も色々とあったようで、 そのストレスからなのかうつ病を発症し、さらに別の難病まで発症した時点で 子どももいなかったこともあり離婚。 母親も高齢で自宅療養もできず、現在は某市にあるケアハウスに入所しているという。 賢くて、思慮深く、繊細で優しい少年時代の彼を思い出し、 その話には人生の理不尽さを感じて暗い気持になった。 さて、札幌南に進学したあと二人。 私たちは当然現役で北大あたりに進学するのだろうと思っていたのだが、 そんなに甘いものではなかったようだ。 というより、ずっと彼らと付き合ってきたOの話からは、 二人とも親の過剰な期待からの過保護と過干渉とで、潰された側面もあるようだ。 結果として、一人は一浪、一人は三浪である。 後者の彼は、可哀想なことに弟の出来が良かったようで、 常に弟との比較にもさらされていたらしい。 二人の人生は、そんなことからやはり辛いことが多かったようで、 一人は特に母親との関係が修復できないままのようだ。 その一つの要因が、彼の子どもが障害をもっていたことによることもあるようだ。 でも、それで彼は母親の支配を断ち切ることができた側面もある。 彼らの少年時代のエピソードを聞いた私たち女性群は 「可哀想だったねー」と涙ぐんだり驚いたり・・。 今、このように書きながら、現在の様々な子どもたちをめぐる社会現象は、 次の世代が私たちの世代のこのような宿題を背負わされているようにも思う。 それでも、彼らは話しているという。 「あの頃あの町で育ち、みんな(土着民の友達)と出会ったことが、自分を支えているように思う」と。 「土着民」という言葉はあまり良いイメージになならないかもしれないが、 農村地帯で米や野菜を親と共に作り、農業を継ぐことが当然とされていた友人たちや、 彼らの仕事を見聞きしたり、自然の中で遊んだりできたことが、 彼らの心の故郷になっているようだ。 時間がなくなったのでこのくらいでおしまいにするが、 彼らの老後は穏やかであってほしいと願う。 しかし、病気になってしまったら・・辛いなあ。 何とか心の平安を取り戻してほしいものだけど・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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