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テーマ:平和憲法(56)
カテゴリ:つぶやき、人間関係
今朝の北海道新聞5面に「歴史と語る」吉田裕(一橋大大学院教授)の記事があった。
敗戦後の日本の形(基盤)について、とてもわかりやすい記事となっているので、 道新のサイトで見れないかと思ったのだが、残念ながら見つけられなかったので、 一部を転記しようと思う。 本当は全文を転記しなくてはわかりにくいかもしれないのだけれど、 新聞の一面の記事を打つのは辛いので、私が肝だと思う一部のみ。 (質問に答える形式の記事である) -この戦争の責任をどう考えたら良いでしょうか。 「それには戦後史の理解が欠かせません。切り口の一つは、サンフランシスコ講和条約です。冷戦のおかげで、日本にとって寛大な講和になりました。条文のどこにも、日本の戦争責任についての言及がありません。東京裁判の判決を受諾することがうたわれているだけです。賠償についても、アメリカがテコ入れして、主要参戦国は請求権を放棄した。アメリカは戦争責任をあいまいにしたまま、西側陣営に引き入れることを重視したのです」 -それでも、日本は国際社会への復帰が認められました。 「日本国憲法があったからです。第9条で、戦争の放棄と戦力の不保持をうたう。第66条には、国務大臣は文民でなければならないとの定めもある。これは、オーストラリアと当時の中華民国が、日本の再軍備を阻む歯止めとして、加えるよう主張しました。さらに、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドのANZUS(アンザス)条約は当初、反共、反ソとともに、日本が再び脅威になった際に共同で対処する狙いがありました。これらが不完全な戦後処理を補う、と世界が認めたのです。 -こうした歴史があるのに、東京裁判を否定し、憲法を改正する動きが始まっています。 「それは国際社会に復帰した前提を覆し、日本外交の自滅につながりかねません。背景にあるのは、戦争体験者が減り、彼らが持っていた歴史に対する痛覚のようなものが薄れていることです。日中戦争以降の民間人を除く戦死者約230万人のうち、6割が病死、餓死でした。そうした無残な死の本当の姿を胸に刻み込んでいた。それが忘れ去られ、戦争の現実に対する想像力が衰えています」 「同時に、私たちが立っている足場がどんな成り立ちでできているのか、それを冷静に分析し理解する力も衰弱しています。歴史的な思考能力です。戦後生まれが全人口の8割を超え、威勢のいい強硬論が飛び交う今こそ、この能力を身につけることが重要になると思うのです」 日本が戦後急激な発展ができたのは、このような背景があってのこと。 それは、東京裁判を受け入れることと平和憲法を根幹とする国づくりをするならば、他国への賠償をせずともいいという国際社会との約束があったからこそ。 私はずっと、どうして戦後の日本が鬼畜米英として戦った相手を、 あれほどたやすく受け入れたのだろうかと少し不思議だったのだが、 国民にとってはこれほど寛大な処置で終わったということに、 安堵と感謝の気持ちも沸き、喜んで受け入れたのではないかと思う。 (もちろん、納得しない人たちも多かったのだろうが、当時の政治家たちはこの道しかないと思ったことだろう) 多額の賠償をしなくてはならなければ、戦後も国民は塗炭の苦しみが続いたことになるのだから。 70年前のこととはいえ、国際社会に国づくりの基礎として約束したことを守らなくては信用をなくすだろう。 昨日のブログに紹介した「日本の歴史家を支持する声明」に名を連ねている世界各国の歴史研究者が、 日本の今後の選択を見つめている。 安倍首相のいう「戦後レジームからの脱却」とは、かつての約束をなし崩しにしてゆくということか。 それは同時に、アメリカへの異議申し立てにつながることだろうし、 安倍首相はそのあたりのことがわかっているのだろうか。 こう考えてゆくと、安倍首相のやっていることは本当に辻褄が合わず矛盾に満ちたものではないか。 一方ではアメリカに追従し子分のように振る舞い、沖縄を貢物のようにしながら、 一方ではかつてのアメリカ等との約束を反故にしようとしているように、私には感じられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年05月09日 09時40分34秒
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