『スマガ』。創作は人を幸せにするか。
『スマガ』の攻略完了。達成感がすごい。俺はやったぜ…。さて、『スマガ』はどんな話だったか。それについて、作品内から明確に読み取れた主張が一つある。ある少女を救う為に召還された勇者・うんこマン。彼がリトライするたびに上位の視点を得て、やがて最上のハッピーエンドに至るまでの過程。彼は何度死んでも、どんな辛い目に遭っても、絶望して諦めかけても、ヒロインたちの為に最後まで走り抜ける。そこにあったのは、誰かに幸せな結末を与えたい、という強い欲求だ。例え、その対象が架空の人物であっても。架空の人物の幸せを本気で祈る…。こんなことは、俺にとっては別に珍しいことでもない。それは常に一方通行な感情だ。作品世界より上位の視点を持っている俺は、決して彼らに知覚されないし、干渉も出来ない。しかし『スマガ』というゲーム内では、プレイヤーと登場人物の対話が擬似的に成立している。作品世界をテレビ画面を通して俯瞰し、主人公に指示を与えて行動させ、なんとかハッピーエンドに導こうとするうんこマンはエロゲプレイヤーと近似の存在だと言えるから。登場人物たちは、うんこマンに感謝していた。自分たちの幸せの為に、ディスプレイの前に張り付いているうんこマンに対して。そして今度は、ただの創作物であるはずの彼らが「プレイヤー」の幸せを祈り、行動する。最終的に、彼らの行動はプレイヤーを襲う悲劇を見事に打ち砕く…。愛ある製作者に生み出され、プレイヤーにも愛された作品は、熱意に押されて一つの独立したセカイとなって膨張していく。セカイを解釈する人間の数だけ分岐し、無限に広がっていくセカイは二次創作の暗喩にも見える。何にせよ、実際に物語は命を得ることがある。しかし仮に物語に命が宿ったところで、それが現実に何かを為せるわけではない。登場人物たちは、プレイヤーのことなど知らない。登場人物たちがどう頑張っても、プレイヤーを救うことなど出来ない。『スマガ』で描かれたことは、あくまで絵空事だ。現実的ではない、「創作内の人物がプレイヤーを救う」という考え方。それでも、一面の真実はある……と思う。プレイヤーは創作に触れて、充足を得る。その充足は、現実を生きる力になる。出来るなら、ハッピーエンドがいい。バッドエンドは妄想の可能性を閉ざす。それよりも、こことは違う別のセカイで、キャラクターたちが生き続けているのを想像できるような終わり方がいい。そういった結末は、見る者を元気にする。困難を直接打破してくれることはなくても、困難に立ち向かう気力をくれる。だから、「創作は人を幸せにする」幸せにすることが出来る。それならば、プレイヤーの感情はもう一方通行では無くなる。プレイヤーがキャラクターの幸せを望むのと同じように、キャラクターもまたプレイヤーに幸せを与えてくれる。ここには確かに相互関係がある。俺が『スマガ』から受け取った最大のメッセージはこれだ。「物語を愛してくれ」という呼び掛け。「だから……お願い」「もう一度生き返って――」「私たちを、幸せにしてあげて」この台詞を聞いた時が、俺のボルテージが最も高まった時だ。だってヒロイン自ら「幸せにしてくれ」とプレイヤーに呼びかけてくれるなんて。今まで、ヒロインを幸せにすることはただの自己満足だと思ってた。なのに、こんな奇跡が他にあるか?少なくとも、『スマガ』はそんな奇跡を表現して見せた。プレイヤーとキャラクターの理想的な関わり方を堂々と示して来た。なら俺も清清しい気持ちで、その結末を受け入れる。このハッピーエンドは、ただのハッピーエンドじゃない。受け手、語り手含め、全てを幸せにしようとする正しく至高のハッピーエンドだ。そう、我らがセカイを照らす恒星。赤、青、黄の眩い光。それは永遠に消えることのない、幸せの象徴。創作を愛する者の心に、その光は宿り続ける。…そんな感じだ。この作品を通して、エロゲの素晴らしさを再認識した。これからも、俺は愛し愛され騙されながら、エロゲに親しんでいこうじゃないか…。