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まいかのあーだこーだ

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2024.05.14
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NHKプラスで「東北ココから~東北古墳調査最前線」を見ました。

東北地方のローカル番組ですが、
先日のNスペ「古代史ミステリー」を補完する内容。
とくに狗奴国にかかわる話だったように思う。

簡単にいうと、
東日本の《弥生系》勢力も《続縄文系》勢力も、
ヤマト王権の影響を受けていて、交易もしてた!
…みたいな話です。

以下は、番組内容のメモ。


1.東日本の《弥生系》勢力


福島県の会津盆地では、
弥生時代から稲作がおこなわれていて、
そこは北陸と郡山盆地をむすぶ交通の要衝だった。

その証拠に、
木製の農具が出土した湯川村の桜町遺跡(3世紀ごろ)では、
在地の土器だけでなく、
北陸系の土器や北関東系の土器が出土してる。



会津盆地にある杵ガ森古墳は、
3世紀末~4世紀初ごろの初期の前方後円墳。
形は約6分の1スケールの「箸墓類型」で、
箸墓古墳の時代から半世紀の隔たりしかない。

やはり会津盆地の大塚山古墳は4世紀末の築造で、
ヤマト王権から授かった三角縁神獣鏡や、
ヤマト王権が朝鮮半島から輸入した鉄の製品が出土。
埋葬された豪族はヤマト王権と対等な関係だったらしい。


郡山盆地からすこし南下すると…

須賀川市の団子山前方後円墳(4世紀中頃)では、
2種類の円筒埴輪を交互に配置してる。
その様式は山梨や静岡の前方後円墳と同じ。

須賀川市の東にある小野町でも、
在地の首長を埋葬したらしき前方後円墳が発見された。

東海地方から東北南部の山間地にいたるまで、
ヤマト王権の影響を受けた文化が共有されてたってこと。

ただし、番組を見てても、
弥生人が東北南部まで進出したのか、
縄文人が稲作や古墳文化を取り入れたのかは分かりませんでした。
徐々に混血が進んだのかもしれません。





2.東日本の《続縄文系》勢力


新潟市の角田浜妙光寺山古墳(4世紀前半)も、
やはりヤマト王権の様式であろう前方後円墳。

その近くの遺跡で出土したのは、
続縄文文化と古墳文化の特徴を合わせた折衷土器。
鉄や米を得るために海産物などと交易してた可能性がある。

さらに新潟市からすこし北上すると…

胎内市にある城の山古墳(4世紀前半)は、
楕円形の円墳ではあるものの、
副葬品の構成が近畿地方の古墳と同じだった。
中国製の盤龍鏡、翡翠の勾玉、鉄製の太刀、
高度なデザインの靫ゆき(=矢を入れる革製の筒)が出土。



日本最北にある前方後円墳は、
岩手県奥州市にある角塚古墳
5世紀末~6世紀初につくられてる。

近くにある中半入遺跡は、
その角塚古墳をつくった人々の住居跡で、
馬の歯が出土してるのだけど、
儀式として馬の生贄を埋めるのは大陸文化の影響っぽい。

なお、
魏志倭人伝には「馬無し」と記述されてるので、
日本へ大陸の馬が移入されたのは、
4世紀末~5世紀の「倭・高句麗戦争」以降のこと。

それから半世紀ほどのあいだに、
東北へも馬がもたらされて交易・運搬に利用された。
東北地方から中央へ輸送された産物は、
鎧のひもや馬具などに用いる大型動物の革など。



6世紀中頃に仏教が伝わると、日本の古墳時代は終わります。



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最終更新日  2024.05.14 09:00:12
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