テーマ:感じたこと(2893)
カテゴリ:死別
どんなにドン底な気持ちでも、
辛くても、苦しくても 一日中辛く苦しいばかりじゃない その中で、あぁ生きていてよかったと、 生きることは素晴らしいと、 身体全身で感じるときがある。 どんなドン底の中でも、 わずかでも生きる光は射してくる。 心の中が暗ければ暗いほど わずかな光も察知し歓喜する。 どんなドン底でも、 人は生きようとする本能を持っている。 母が最期まで、生きる希望を失くさなかったように・・ そのわずかな光に向かって生きていく。 生きる光、 それは誰の心にも差し込んでくる。 でも、死の光もあると言う。 私には、まだそれがわからない。 稚拙な人生で、人の死を、愛する人の死を目の当たりにしたのは、母が始めてだった。 死の光を教えてくれるのは、 より多くの死を正面から見つめてきた医師であることに、私は驚く。 彼らはそろって、死を否定的には捉えない。 「よかったね」「また会おう」と言う。 たった一人の死しか知らない私にはそれがわからない。 なぜ、よかったのか、全くわからない。 また会えると、どうして言えるのかわからない。 私には死は恐怖だ、この世との永遠の隔絶だ。 どうして、死がよかったなのか。 多分、それは理屈ではないだろう。 多くの死を見つめてきた人たちだからこそ感じ、確信できる何か。 「よかったですね」「また会おう」 と言える先には、死の光が見える。 苦しくても辛くても、生きたいと、生きる光をたどりながら 最期に行き着くのは死の光だとしたら、 私は生死を肯定できる。 生きる光があるのなら 死の光もあるかもしれない 人生は「苦」であると言い切った、 お釈迦様が、最期の時に 「この世は美しい、人の心は甘美なものだ」 と言われたように 死の光、 それは遺された者に対する単なる慰めだろうか それとも、それは本当にあるのだろうか 生きる光 死の光 人は死ぬために生きている。 死ぬと分かっていても、生きようと生きている。 死にたいほどに苦しみながら生きたがっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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