カテゴリ:死
人の最期は、身内は遠ざけたほうがいいという人がいる。
チベット密教でも、逝く人が配偶者や子のことを言うと 「そのようなことを考えてはいけない、あの世のことだけを考えなさい」と言うそうだ。 この二つに共通するのは、人が死に逝くとき、いかにこの世の執着をなくすかを重要視している。 私にはこのことが分かる気がする。 私は、母が助からないと言われてからは、いつも母の死をおもった。 いかに母を助けるか、ではなく、 医師の言葉をそのまま事実として受け入れ、 いかに母が安らかにいけるかを考えていた。 母が亡くなった後、そのことは随分私を苦しめた。 自分はまだ生きている母を、生きようとしている母を見殺したのだと、 自分を責め続けた。 でも、あの時の私は、母が安からに逝く事を何よりも願った。 最期の日、妹は母に 「お母さん逝っちゃだめ、こっちこっちに戻って!」と言い続けた。 私は母に 「お母さん安心していいからね、大丈夫だからね」と言い続けた。 これは、 お母さん安心して逝っていいからね、私たちのことは心配しなくて大丈夫だからね という意味だった。 妹や叔母が近くにいたから、はっきりとはそう言えなかったけれど、 そういう思いを込めて母に呼びかけ続けた。 それから、最期にどうしても伝えたかった言葉 「お母さん愛しているからね、 私を産んでくれてありがとう お母さんの子供で本当に幸せだったよ」 これも言い続けた。 お母さんの記憶に最期まで残しておいて欲しかった私の言葉。 その時だった、母が言ったのは 「ありがとうございました、 ようやくわかりました お世話になりました」 その言葉を言ってからは、母との意思疎通はほとんど不可能になった。 何か話そうとするが分からない、 必死に目を見開いて辺りを見渡すが何を伝えたいのか、もう分からなかった・・ 最期の日を振り返るとき、 「もっと、もっと」とか「どうしてあのとき・・」と責める気持ちがずっと強かった。 今もそう思う でも、母に安らかに逝ってもらいたい そう願ったのは、 まぎれもなく、精一杯の私の母への愛だった。 精一杯の母への愛だった。 これは嘘じゃない。 それは事実なのだと 私の中で受け止めよう でも、今の私は あの言葉とは裏腹に、今も大丈夫じゃなくて、 母も安心できないだろう・・ だから、 もう一度、あの時の自分の母への愛を思い出そう 「お母さん、安心して逝っていいからね、 私たちのことは心配しなくて大丈夫だからね」 逝く人を看取るのは こうするといい なんていう形はない ひとそれぞれの生き方があるように それぞれの逝き方がある あの頃の私は、 母が安からに逝くことが、一番いいと信じていた でもそれは、私の想いで 母の想いはどうだったか分からない・・ 最期まで生きることに希望を託して、 私にその思いに寄り添って欲しかったのかもしれない だから、看取りとは やはり、寄り添うことだと想う。 自分の苦しいほどの想いは横において 相手の気持ちに寄り添うこと でも、この寄り添うということは なかなか出来ない 寄り添っているつもりでも 身内だからこそ、 自分の方こそ誰かに寄り添ってもらいたい苦しみの中にいる身内には それは、なかなか難しいことだ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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