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2022年06月17日
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カテゴリ:九州の話題
今日6月17日は『薩摩の日』という記念日だそうです。
薩摩とは律令体制では現在の鹿児島県の左半分側の国であり、
江戸時代には右半分の大隅国と合わせて『薩摩藩』と呼ばれましたが、
この『薩摩藩』ができた日というわけではありません。

では『薩摩の日』の由来ですが、
幕末の慶応2年(1866年)に当時のイギリス公使のハリー・パークスが、
薩摩藩を訪問したことが由来の記念日だそうです。

では、パークスが薩摩藩を訪れた経緯について説明します。
幕末期の日本は開国後に外国人がどんどん入国してきますが、
情報が十分ではなかったこともあって、外国人が日本の作法を知っているわけではないため、
国父・島津久光の行列を馬に乗って横切ったイギリス人が薩摩藩士に殺傷されるという
生麦事件が文久2年(1862年)に発生します。

これがきっかけでイギリスは翌年、本国から艦隊を引き連れて鹿児島湾に侵入し、
薩摩藩との間で薩英戦争が勃発しました。
3日間に及んだ砲撃戦の末、双方に甚大な被害が出たことや、
イギリス艦隊側の燃料や弾薬が尽きたこともあって戦闘は終結しました。

その後、薩摩藩とイギリスとの間で講和交渉が行われましたが、
日本の一地域である薩摩藩がイギリス艦隊と互角に渡り合ったことを高く評価され、
薩摩藩はイギリスと仲良くなりました。

そして慶応2年(1866年)の今日、長崎で『グラバー商会』を営んでいた
トーマス・グラバーの仲介でパークスは薩摩藩を訪れ、
当時の薩摩藩主である島津忠義やその父久光に謁見し、
西郷隆盛・寺島宗則と会見しました。
その後パークスは薩摩藩や長州藩といった倒幕勢力に協力し、
これが明治維新につながることになっていきます。

余談ですが薩英戦争の際にイギリス軍の捕虜となってしまった1人が、
明治時代に実業家として活躍するディーン様五代友厚です。

(鹿児島中央駅前の『若き薩摩の群像』。この中に五代友厚もいます。)

なお、今日が『薩摩の日』だからと言って鹿児島県内で休日になったり、
何かのお祭りがあったりするわけではありません。
しかし『薩摩の日』にパークスが薩摩藩を訪れたからこそ、その後の明治維新、
ひいては現代の日本があるということを思うと感慨深いものがありますね。

それでは、今日はここまで。



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最終更新日  2022年06月17日 21時16分56秒


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