海に咲く花(五) 1
ぼくは頭を押さえて、目をつむり、集中して思い出そうとしている。何度試しても、何も思い出せない。 ぼくは、生まれてまだ、六ヶ月ぐらいだったのだ。その頃の記憶なんてない。ぼくを、生んでくれた母さんという人は、ぼくを残して亡くなった。ぼくは、その人のことが知りたかったのだ。思い出せるなら、思い出したかった。少しでも、ぼんやりとでも、感じることができないかなと思って。 その人は、どんな人だったのだろう。やさしかったのだろうか。きれいな人だったのだろうか。賢い人だったのだろうか。 その人は、ぼくに何て話しかけていたのだろう。ぼくは、その時どんな反応をしたのだろう。ころころっと、笑ったりしたのだろうか。 その人は、病気で亡くなることが分かって、「この子を、塁を、どうぞお願いします!」と悲痛に叫んだのだと言う。ぼくは、それからずーっと泣き続けていたみたいだ。 そして、今の母さんが、ぼくの母さんになってくれたのだ。ぼくが知っているのは、そこまでだ。ぼくはあまりにも小さすぎて、何も記憶にない。 その人が何の病気だったのか、そして、ぼくに、手紙か何か遺してはいなかったのか。ぼくは、今も、訊けないでいる。おじいちゃんに訊いてみたいと思ったこともあった。でも、おじいちゃんは、ぼくを育ててくれた母さんに絶対的な恩を感じていたから、そんなことを訊いたら、怒るだろうと思っていた。母さんが、悲しむようなことは、おじいちゃんがいつも阻止したからだ。 耕ちゃんが、東京に行ってしまってから、ぼくは急に、その人のことが知りたくなったのだ。耕ちゃんみたいに、ぼくにだって、ぼくを生んでくれた人がいたんだよって、耕ちゃんに言いたかった。ぼくにだって、抱きついていける人がいたんだよって。 耕ちゃんは、母さんたちと楽しく暮らしていけばいいのだと思った。ぼくには、もう関係ないことだと認めなくてはいけない。何故なら、それを決めたのは、ぼくなのだから。 おじいちゃんは、何度もなんども、ぼくを諭した。さとして、後へ引かなかった。「後になってから分かるんだぞ。やっぱり母さんたちと暮らして良かったって、な。塁、じいちゃんは、間違っていないんだぞッ」 ぼくは、段々追い詰められていった。ぼくの居場所は、何処にあるのだろう。ぼくは、何処へ行けばいいのだろう。話したくても、イケは学校に来なくなっていた。 学校では、野島さんが引っ越すらしいという噂がたっていた。そして、由布子さんの家族も、転勤でこの三月に、関西に行ってしまうのだという。もう、隣家の実家には、あまり来られなくなってしまうだろう・・・。耕ちゃんは、たあちゃんがいなくなってしまうのを知っていたのかもしれない。だから、あの時、電車に飛び乗ってしまったのかもしれないのだ。 ぼくは、耕ちゃんのこと、分かってあげていなかった。耕ちゃんは耕ちゃんで、寂しかったのかもしれない。でも、耕ちゃんには、母さんがいる。ぼくが、心配することじゃないんだ。 ぼくの周りから、剥がれ落ちるように、みんながいなくなる。ぼくを生んでくれた人、それから父さんも。そして、イケ、野島さん、由布子さんまでも。 今度は、ぼくがいなくなってしまえばいいんだ。父さんのように、消えてしまえばいいんだ。ぼくは段々、そう思い始めていた。 つづく