海に咲く花(五) 4
雨が降ってきたみたいだと、思った。ぼくにとっての、最期の雨。急がなければ、びしょぬれになっちゃう!そう思って、ぼくは急いで、飛んだはずだった。死んでしまったら、もうそんなことは全て関係のないことだとは、考えられなかった。ぼくは。抱きとめてくれるはずの父さんに向かって、ダイブしたのだ。 遥か下では、確かに、波が、白くくねる手でぼくを誘っていた。ぼくはそれを、はっきりと見たのだ。海は巨大な口を、あんぐりと開けて、落ちていくぼく(獲物)を、待っていた。今か今かと。ぼくは、ぶるぶると震えた。 父さん、絶対会えるよね? 父さん、絶対来てくれるよね?どんなに決心しても、父さんの所に本当に行けるかどうか、不安で、恐れおののいた。父さんからの返事がほしかった。それは、ないのが当たり前だと分かっていても、ぼくは切望(のぞん)でいた。心の奥の、奥から! 落下していくぼくは、空中で、何か、大きく叫ぶ声とともに強い力で、押し上げられたと、思った。何だか、父さんの懐かしい匂いがしたような気がする。地上からは、むんずとTシャツの背中を乱暴に掴まれ、引き上げられたのだ。Tシャツは、ずり上がって、ぼくの首を強力に締め上げた。声も出せなかった。苦しかった。何が起きたのか分からなかった! ぼくは、岩にしゃがみ込んで泣いていた。そこには、胸をなでおろしているぼくがいたのだ。最期の雨も降ってはいなかった。ぼくは、何をしようとしていたのだろう。シャツの袖口も胸のあたりも涙で、ぐじゃぐじゃだった。ぼくは、ずーっと、泣いていたのかもしれない。風と荒波の吠える音を聞きながら、ぼくはまだ泣いていた。泣いて、泣きすぎて、頭が痛かった。鼻が詰まり、息をするのが苦しかった。耳の奥が、きいーんと響き微かに痛みがあった。そして、とても、寒かった。ぼくは、震えていた。ぼくは、まだ生きている。手も足も震えながら動いている。どうしてぼくは、まだ生きているんだろう。ぼんやりと、考えていた。父さんは、ぼくを迎えには来てくれなかったんだ。だから、ぼくはまだ、ここにいるんだ。「気がついたかッ?超アホッ!」 イケが仁王立ちして、そこにいた!心臓が、反転したと、思った。何でだろう。何故こんな所に、イケがいるのだろう。いつ、来たのだろう。いつから、そこにいたのだろう。いつから、ぼくは見られていたのだろう。どうして、気がつかなかったのだろう。ぼくは、混乱した。「イケも、ぼくと同じ?」 ぼくは、そう言った。そんなバカなことしか思い浮かばなかった。「ケッ!これだよッ」 イケは、ぼくを、蹴飛ばすように、はき捨てるように、短く怒鳴った!ぼくを、睨みおろしている。 ぼくは、はじめて気がついた。今はもう、親友でもなんでもないイケの前で、ぼくは全てをさらけ出していたのだ。見られてしまったのだ。一番見られたくないところを。 ぼくは、分かった。ぼくは、イケに止められたのだ。ぼくを、引っ張りあげたのはイケだ。でも、ぼくを押し上げたのは、何だったのだろう。「学校でよォ。お前が異常だと思ったから、な。黙っていなくなったし、後をつけたのさ。お前、信じられねーほど、アホだよな?こんなバカだとは思わなかったぜ。こんなバカ、助けたってしょうがねーけどよ。何があったか、知らね―けど、どアホな奴だぜ、お前」 ぼくは、イケの突き刺さるような目つきを見ないようにした。でも、乱暴な言葉には、ぼくを、安堵させるものがあった。黙っていなくなったぼくを追いかけて、こんな所まで来てくれた気持ちが、そこには溢れていたのだ。 つづく