カテゴリ:哲学・思想
エミール・ミシェル・シオラン「悪しき造物主」(叢書・ウニベルシタス) 訳 金井 裕 法政大学出版局 1984年刊 ≪一人ひとりの人間は、外部から見れば、ひとつの偶発時、幻影である(・・) たぶん私たちは、ほとんど他人を見つめるのと同じように、自分自身を外部から 眺めてみるべきであり、自分自身とはもはや何ら共通のものはもたぬように 試みるべきであろう。 もし私がおのれ自身に対して、見知らぬ他人として振舞うならば、 私は自分が死ぬのをまったく無関心に眺めているだろうし、 私の生も、私の死も、もはや<私のもの>ではなくなるだろう。 生と死とが私のものである限り、そして私がそれらを私のものとして引き受けている 限り、それらは私の力ではいかんともし難い試練である。 これに反し、これらのものには内在的存在が欠けており、いささかも私と かかわりをもたぬはずだと納得すれば、なんと気持の休まることか!≫ ・・痛みの中では、こんな心境にもなります(>_<) ≪覚醒は知的能力とは別個のものである。 人は才能に恵まれていながら、精神的な意味で馬鹿者でもありうる。 また一方、知識としての知識をもっているからといって、 それだけ進歩しているというわけでもない。 <認識の目>、こういうものは無学な人間でももつことはできるし、 従って彼は、どんな学者よりも優れた者でありうる。≫ その一つが、「自分という存在は自分ではなく、自分のもっているものは 自分のものではないと見抜くこと」でもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.06.07 10:07:21
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