福の井の茶を飲み、桜のお濠沿いに散歩したのは春嶽と秀康の城
さてさて、春に娘と出かけた桜咲く北陸の7つのお城の中で、一番、桜が見事だなぁと思ったお城は、この福井城である。広いお濠越しに石垣を彩っている桜は、とても華やかだ1泊2日の盛りだくさんの弾丸ツターももう終盤。このお城も今までに来た事はなかったし、もし今回の旅行が無ければ今後も行く機会もなかったかも知れないと思うと、こういう企画旅行は一押しをしてくれたようにも思えるいつかは行きたいとずっと思い続けているままの東北や、四国に、鳥取、日光だって行こうと思えば、スグにだって行けるとは思うのに、これだ!と思うようなツアーがあればいいのだけど桜の花にも負けないような、素敵な和服の女性もお花見なのだろうか。土曜日でもあるので花見客も多く、様々なイベントも行われていた横井小楠と由利公正(三岡八郎)が一緒に熊本に旅立った際の「旅立ちの像」。横井小楠は熊本藩士だったが、藩主の松平慶永(春嶽)に招かれて、福井藩の顧問として藩政改革に関わったそうであるし、春嶽を通じて幕政にも深く関与したそうだ由利公正もまた、春嶽に認められ横井小楠とともに藩財政の立て直しを行ったそうだ。更に坂本龍馬と親交があり、龍馬が福井に訪ねて来た事もあり、維新後は「五箇条の御誓文」の起草にも関わった人物だ島津斉彬(薩摩)、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)らと並んで、幕末の四賢侯と称された。松平慶永(春嶽)は、田安徳川家第三代徳川斉匡の八男として生まれ、徳川将軍徳川家慶の従弟であるが、松平斉善の養子となって、わずか11歳で福井藩主となった肥後熊本藩主、細川斉護の娘である勇姫が正室となっている事から、横井小楠とも繋がりが出来たのかも。公武合体派として名を馳せたが、米国からリンゴの苗木を取り寄せ、日本で初めて栽培をした人物でもあるそうだ。自転車に初めて乗ったのも彼らしいまた明治や、元治などの元号の選定にも大きくかかわっているんだとか。幕末のファンとしては、春嶽の側近であった福井藩士、橋本左内も特筆すべき逸材だ西郷隆盛の盟友でもあったが、安政の大獄で若くして命を落としてしまったそんな訳で幕末の頃には、松平春嶽公や横井小楠、由利公正、橋本左内といった志を持った人たちが日本の行く末を憂い語ったであろう福井城に、私も出かけてみよう。今回もガイドの女性による団体行動だ現在、福井城の本丸内には福井県庁や福井県警察本部、県議会議事堂などが所狭しと並んでいるが、この日は土曜日であった為か花見の一般市民の姿が多かった。御本城橋を渡いよいよ城内へお城については、こんな感じです↑ ウィキペディアで補足すると・・・>1600年(慶長5年)に家康の次男である結城>秀康が68万石で北ノ庄を拝領すると、翌>1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し>築城に着手した>1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され>名実共に御家門の居城にふさわしい城となる>よう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の>歳月をかけて完成する。完成した城は東が>新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口>馬出までの2キロメートル四方に及んだ>石垣の積み方は、天守台、大手門、櫓台、隅角>部等の重要な部分は切込はぎ積で、その他の>城壁は打込はぎ積である。また、横線が波立って>いるが布積である。福井市小山谷町で産出した>笏谷石を用いている。 石垣の構築には、穴太積で>有名な穴太衆も携わったことが推測される>明治維新後、1871年(明治4年)、福井藩は>福井城の解体を幕府に願い出、旧城地は1873年>(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士>たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、>開墾を進めた > 現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、>天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、>県会議事堂、県警察本部などがあり、公園と>しても整備されている(中略)本丸御殿の一部は>(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築>されているさてさて、この城は徳川家康の次男の結城秀康が初代城主であるが、それについて説明してみると家康は正室の築山殿との間に、嫡子の松平信康がいたが、信長の命令で切腹をさせられてしまった本来であれば秀康が継ぐはずであったが、生母の身分の違いから、西郷局の子で三男の徳川秀忠が二代将軍となった徳川でもなく、松平でもなく、なぜ結城を名乗る事となったのか、ウィキペディアによれば>天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男>として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は>三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の>娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称>おこちゃ、小督局)幼名を於義伊(於義丸/>義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・>家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。>その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に>思った兄・信康による取りなしで実現したもの>であったという。天正12年(1584年)の小牧・>長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の>条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は>人質)として差し出され、家康の後継者は異母>弟の長松(後の徳川秀忠)とされた>母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹>前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと>考えられる。羽柴秀吉の養子として「羽柴三河>守秀康」と名乗る。秀吉に実子の鶴松が誕生>すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の>後継者として指名。そのため他の養子同様に>再び他家に出される>秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる>加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子と>することを考えついた。結城氏は下野国の守護に>任命されたこともある名家であった。秀康は関東に>下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻>して結城氏の家督および結城領11万1,000石を>継いだ>関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万>1,000石から越前北庄68万石に加増移封>された。慶長9年(1604年)には松平氏に>復することも赦されているとする史料も>存在する僅か34歳で、梅毒で亡くなったそうである梅毒の日本での最初の記録は、1512年の記録で、南蛮からもたらされたそうであるが加藤清正、浅野幸長、前田利長、黒田官兵衛といった名高い戦国武将も梅毒で亡くなったという説もある。キリスト教や鉄砲以外にもそんな迷惑な南蛮渡来もあったなんてさてさて本丸御殿と、天守は内堀の中にあるが何代目かの藩主から、西三の丸に屋敷を構えてそこで暮らしながら、政務は本丸御殿の政庁で行う為に通うようになった藩主がその移動の際には、雨のなどで濡れないよう、橋にも屋根がつけられて、本丸と西三の丸御座所を結ぶ「御廊下橋」が、往時の姿に復元をされていた、は2008年3月に完成橋の長さ14.5メートル。幅3.6 メートル総工費は約1億5900万円だそうだそれに続く「山里口御門」も、復元整備を開始し2017年10月末、櫓(やぐら)門、棟(むな)門の建物と白壁の土塀が完成をした完成をした櫓門は、木造2階建ても切り妻造りで笏谷石(しゃくだにいし)による瓦葺きである2階部分の櫓の外壁は漆喰塗りで、梁(はり)はマツ、床、壁板、柱にヒノキを使用しているそれにしても何だかんだいっても、徳川家康の次男の城だけあって、その辺の大名のものとは違った、凝った造りで目を見張るものがあるウィキペディアによれば、その天守は>本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣を>ついて望楼型4重5階の天守が建てられた。>高さは、天守台も含めて約37メートルにも>及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上>重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風が>あり、元和大坂城天守に見られるような配置に>破風が並べられていた>寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように>類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し>天守の代用としている。古写真では、複合式>望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあること>から、3重5階の櫓であったと見られている>福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)>6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に>北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震>ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市>丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃し>都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)>大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・>淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)>などと並ぶ日本の災害史上最悪クラスの震災となった>2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ>戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時>あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および>現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は>日本の近代史上でも類をみない。>福井市中心部は昭和20年の福井空襲で壊滅してから>数年後、復興途上でバラック建築が多く、不安定な>構造だったためにかなりの建物が倒壊している。福井市内の死者930名、負傷者は10,000名。建物は全壊12,425棟、半壊4,418棟、焼失1,859棟といった有様であった。福井地震で崩れた石垣がそのままに残されていたもともと福井にあったお城は、戦国ドラマでもとても有名な北ノ庄城であった。しかし福井藩第三代藩主の松平忠昌が、北は敗北に通じるとして嫌って、縁起の良いよう「福の居る場所」という意味で「福居城」としたのが、後に今の「福井城」と改められたそうだ福井城の天守台には、北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあったという「福の井」があり、こちらが福井の語源では?なんて説もあるそうだ。そこで汲まれた水を使ったお茶を振舞って貰えた福井県は、フクイサウルスをはじめとして恐竜の化石が多数発掘をされたことから「恐竜王国」と呼ばれおり、恐竜をモチーフにしたマスコットがいろいるようで、この子は昨年の福井で開催をされた「福井しあわせ元気国体」のマスコットの「はぴりゅう」ステゴザウルスをモチーフに、やる気を表現するために赤いツノを付けた架空の恐竜で、国体のキャラクターなので、ジャージを着ているそうで福井工業大学の学生さんのデザインが、公募で採用されたようだ恐竜王国だけに、福井の駅前にも巨大な首長竜がお出迎え。という訳でいよいよ北陸の7つの城も最後の訪問先へとバスは向かった 平成31年4月6日に越前福井城で撮影にほんブログ村