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旅のいろいろ

2019年06月17日
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カテゴリ:旅のいろいろ


さてさて、4月上旬に出かけた桜咲く
北陸の七名城のバス旅も​、最後の城と
なった。締めを飾るのはご想像通り
「北ノ庄城」である。本能寺で信長が
亡くなった後の戦国を大きく動かした
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いの場である




ルイス・フロイスは「信長の時代の日本で
もっとも勇猛な武将であり果敢な人」だと
勝家を評している。武骨の性格と、秀でた
武勇から鬼柴田と呼ばれもした戦国を代表
する武将の一人だ




本能寺で横死したは信長の後継者を決める
清須会議で秀吉と対立。織田家臣団は二分に
わかれ賤ケ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄
城に逃れ、お市の方と共に命を絶った。勝家
だが妻も持たず、子供も養子ばかりだった
ようで




浅井長政の未亡人で、三人の娘の連れ子を持つ
お市の方(信長の妹)と、勝家は初婚だったのか
短い期間でありながらも、仲睦まじく暮らして
いたようだ。逃れようと思えば幾らでも城から
出られたお市の方が、勝家と共に北ノ庄城で
命を果てたのは、何かしら考えるところが
あったからに違いない




更には戦国を彩った浅井三姉妹だが、特に長女の
茶々(淀君)は、信長軍に攻められた小谷城の
落城で父親の長政を亡くし、秀吉軍に攻められた
ここ北ノ庄城では母親のお市の方を亡くし、更に
家康軍に攻められた大阪城で息子と、己の命を
散らしたという、戦国の悲劇のヒロインだ




女城主直虎とか、松陰の妹をする位なら、なんで
茶々を大河の主人公にしないのかな。結果的には
豊臣家を滅ぼしたヒールイメージが強いんだろうか
でも三度の落城と、その相手が三英傑(信長、秀吉
家康)って、すごいシチュエーションじゃないかと




さて織田信長の親族は美形ぞろいだったようでして
妹のお市の方は、戦国一の美人だったそうで、モテ
祈願も出来るという柴田神社。前回の福井城が元は
北ノ庄城だと書いたように、かなり広い城だった
ようで、このあたりには当時の天守があったらしい




柴田神社は勝家を主祭神とし、妻のお市を
配祀する。二人の辞世の句は、お市の方が
「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の別れを
誘ふほととぎすかな」で、その返句として
勝家は「夏の世に夢路は儚きあとの名を
雲井にあげよ山ほととぎす」との事だ




北ノ庄城について、ウィキペディアによれば

>朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向
>一揆(越前一向一揆)を平定した功績に
>よって、越前国北ノ庄を与えられた柴田
>勝家が、天正3年(1575年)に自らの
>縄張りによって築城を開始する




>同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が
>敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が
>放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することに
>なるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じ
>られたという記録が残っている




>1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに
>結城氏によって北ノ庄城が築城されたため
>現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない
>平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘
>調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の
>地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが
>本丸の正確な位置を完全に特定するまでには
>至っていない




>城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流
>した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用
>していたと推定されており、天守は7層(一説
>には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城で
>あったと伝えられている。柴田時代の建築を
>しのばせる史料として、宣教師のルイス・
>フロイスが1581年(天正9年)に北ノ庄を
>訪問したときの記録があるが、それによると




>「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく
>立派な石で葺かれており、その色により
>一層城の美観を増した」とある。この「石」
>とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石の
>ことであり、現在発掘調査で見出された柴田
>時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城と
>ほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって
>築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で
>葺いている




>また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、
>勝家によって足羽川に架橋された九十九橋に
>ついても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼ
>した羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正
>11年)4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に
>送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、
>天守が九重」であった旨の記述がある




との事で、安土城にも負けなかった戦国の
城跡は今は街中でひっそりと。その殆どは
結城氏による北ノ庄城(福井城)になって
官公庁の庁舎が建っている。こうして北陸
七名城の旅は終わった




午前中に既に出かけてる越前大野へ戻り
そこから九頭竜湖のある油坂峠を越えて
岐阜県に入るようだが・・・、越前大野
結構、移動に時間がかかるのに丸岡城→
大野城→昼ごはん→福井城&北ノ庄城→
再び越前大野→九頭竜って、時間ロスが




帰路にあたる越前大野を最後の見学に
出来なかったのは、本来なら金沢城が
最後の観光先だった為だろうか。もしか
したら、当初は九頭竜ルートじゃなく
行きと同様に北陸自動車道から、東海
北陸自動車道が利用されるはずだったん
じゃないかと




だったら最初からそうゆうルートにすれば
越前大野の無駄な往復をしなくても済むのに
安い旅行は宿や、食事、観光、日程などで
何かしら、しわ寄せのようなものがある
ような気もする




長野県松本市から福井県福井市までを結ぶ
高規格幹線道路である「中部縦貫自動車道」
油坂峠道路が建設されており、これが出来れば
高山方面から福井方面もアクセスが楽になる




まだ開通をしていない九頭竜付近は、福井市
から岐阜県高山市を経由して長野県松本市に
至る国道158号を利用する事になり、スキー
場などもあった




道の駅九頭竜で、トイレ休憩でバスを降りた
時刻は午後4時頃だったが、高山までは道半ば
と言うか、福井市からそのまま米原経由の高速
利用で名古屋に帰った方がずっと早いと思うが
バスは高山発着の濃飛バスだし、名古屋からは
高山までのワイドビュー飛騨を利用することが
外せないのかもしれない




高山からは午後7時近くのワイドビューで名古屋
には午後9時頃着。ネット検索をしたら福井から
特急ではなく、JRの普通電車を利用しても、午後
3時に出れば午後7時には名古屋駅に到着できる
費用も3020円で済むし、お金を出せば特急で
所要時間は2時間だ




う~む。7つの城に目がくらんだけど、やっぱり
個人旅行では考えられない、へんてこなルートだ
まぁ、そのおかげで(北陸道&名神利用なので)
今まで来ることがなかった、名前だけは知っていた
九頭竜というような所に来れた訳だが




何でも鉄道ファンには憧れのJR西日本越美北線
(九頭竜線)の終点である、九頭竜湖駅のログ
ハウスっぽい駅舎も見学が出来た。ここからは
越美南線の北濃駅(岐阜県郡上郡白鳥町)まで
鉄道が繋がるはずだったが実現はしなかった。
岐阜県側は第3セクター化をされ長良川鉄道と
なっている




越美北線は福井市の越前花堂駅から、大野市の
九頭竜湖駅に至る22駅、路線距離は52.5 km
愛称を九頭竜線という。2004年の福井豪雨で
九頭竜川水系の足羽川にかかる5つの橋梁が流失
越前花堂駅と越前大野駅間が不通となり。莫大な
費用による全線の復旧には、数年を要したそうだ




九頭竜湖駅は福井地域鉄道部が管理し、隣接する
道の駅九頭竜の指定管理者である業者が窓口業務を
受託する簡易委託駅である。どれくらい利用者が
あるんだろうか




道の駅九頭竜には、24時間利用が出来る
EV充電スタンドもあった。休憩を終えて
バスはいよいよ九頭竜湖へと




九頭竜湖は、高さ128メートルのロックフィル
ダムの九頭竜ダム(洪水調節・発電が目的。元は
長野ダム)によって、九頭竜川がせき止められ
出来た広大な人造湖である




九頭竜湖は面積890ヘクタールと、日本全国有数の
広さを持ち、春は万本桜が咲き、秋は紅葉が美しい
風光明媚な湖である。しかしバスの奥様らは女性の
遺体が入れられた冷凍庫が遺棄された殺人事件の
舞台として認識しているようだ




湖に架けられた箱ヶ瀬橋は瀬戸大橋の試作として
建設をされた吊り橋だそうで、愛称は夢の架け橋
なんだとか




湖畔には二つの慰霊塔があり、ネット検索をすると
日本語の他に英語やハングルの碑文もあり、どうも
戦没者のものであるらしいが、正しくは判らない




更に幾つかのふるさとの碑もあり、ダム建設に
よって湖底に消えた集落の人たちの、故郷の
記念碑であるようだ。旧和泉村(現大野市)の
上半原、米戸、箱ヶ瀬、大谷、野尻(字)集落
計500世帯あたりが湖の底に沈む事となり、
更にダム湖の造成で孤立する集落を含めると
800余名が立ち退き、主に中京圏に転居した




九頭竜川の語源であるが、寛平元年(889年)6月
平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その
尊像を川に浮かばせると、一身九頭の竜が現れて
尊像を捧げたからだとか色んな説があるそうだ




湯坂峠を越えて、いよいよ岐阜県へ突入。岐阜県も
クローバーみたいな形をしてて、東端に住んでいる
私には、西の果てはあまり縁がない。というか全く
未開の地であった




お~、これがスーパーによく置いてあるひるがの高原
牛乳の牛舎なのか!! バスの車窓からだけど名前
だけは知っていた地名を見て感動




白鳥からそのまま、東海北陸道を南下して名古屋に
出た方が良さそうだが、まぁ珍しい地域を車窓から
眺めれるだけいいか。もう来ることもないかも




車は北上し、旅の起点であった飛騨高山へと向かう
道路脇には残雪なども




東の彼方に岐阜県と長野県にまたがる北アルプスの
白い峰が目に飛び込んできた




夕刻に高山駅に無事に到着。午後7時近い特急の
時刻近くまで、自由時間となったが遠くまで行く
時間もないし、とりあえずコンビニで軽食を購入
駅のベンチで少し早い夕食をとる事にした




間もなく春の高山祭だという事で、駅前にはのぼりも
たっていた




福井のお土産は、昼ごはんを食べた土産物屋で購入
高山でも好きな塩せんべい




越前大野城では登城証明書を貰った。31897名目
みたいだ。行きには名古屋駅で集合をして、特急に
乗車をしたが、帰りには途中下車をしてもいいので
中央線を利用する人たちは、我々も含めて高山線の
美濃太田駅で特急を下車し、太多線で多治見に出て
そこから中央線へショートカット




名古屋駅に着くのと、さほど変わらない時間に
中津川駅に到着し、近くのスーパーで激安価格に
なっていた総菜を購入出来て、良い土産となった




        平成31年4月6日に福井市と、九頭竜から飛騨で撮影

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最終更新日  2019年06月18日 07時31分54秒
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2019年06月13日
カテゴリ:旅のいろいろ


​さてさて、春に娘と出かけた桜咲く北陸の
7つのお城の中で、一番、桜が見事だなぁ
と思ったお城は、この福井城である。広い
お濠越しに石垣を彩っている桜は、とても
華やかだ




1泊2日の盛りだくさんの弾丸ツターも
もう終盤。このお城も今までに来た事は
なかったし、もし今回の旅行が無ければ
今後も行く機会もなかったかも知れない
と思うと、こういう企画旅行は一押しを
してくれたようにも思える




いつかは行きたいとずっと思い続けている
ままの東北や、四国に、鳥取、日光だって
行こうと思えば、スグにだって行けるとは
思うのに、これだ!と思うようなツアーが
あればいいのだけど




桜の花にも負けないような、素敵な和服の
女性もお花見なのだろうか。土曜日でも
あるので花見客も多く、様々なイベントも
行われていた




横井小楠と由利公正(三岡八郎)が一緒に
熊本に旅立った際の「旅立ちの像」。横井
小楠は熊本藩士だったが、藩主の松平慶永
(春嶽)に招かれて、福井藩の顧問として
藩政改革に関わったそうであるし、春嶽を
通じて幕政にも深く関与したそうだ




由利公正もまた、春嶽に認められ横井小楠と
ともに藩財政の立て直しを行ったそうだ。更に
坂本龍馬と親交があり、龍馬が福井に訪ねて
来た事もあり、維新後は「五箇条の御誓文」の
起草にも関わった人物だ




島津斉彬(薩摩)、山内豊信(土佐)、伊達
宗城(宇和島)らと並んで、幕末の四賢侯と
称された。松平慶永(春嶽)は、田安徳川家
第三代徳川斉匡の八男として生まれ、徳川将軍
徳川家慶の従弟であるが、松平斉善の養子と
なって、わずか11歳で福井藩主となった




肥後熊本藩主、細川斉護の娘である勇姫が
正室となっている事から、横井小楠とも
繋がりが出来たのかも。公武合体派として
名を馳せたが、米国からリンゴの苗木を
取り寄せ、日本で初めて栽培をした人物
でもあるそうだ。自転車に初めて乗った
のも彼らしい




また明治や、元治などの元号の選定にも
大きくかかわっているんだとか。幕末の
ファンとしては、春嶽の側近であった
福井藩士、橋本左内も特筆すべき逸材だ
西郷隆盛の盟友でもあったが、安政の
大獄で若くして命を落としてしまった




そんな訳で幕末の頃には、松平春嶽公や
横井小楠、由利公正、橋本左内といった
志を持った人たちが日本の行く末を憂い
語ったであろう福井城に、私も出かけて
みよう。今回もガイドの女性による団体
行動だ




現在、福井城の本丸内には福井県庁や福井県
警察本部、県議会議事堂などが所狭しと並んで
いるが、この日は土曜日であった為か花見の
一般市民の姿が多かった。御本城橋を渡
いよいよ城内へ




お城については、こんな感じです↑ ウィキ
ペディアで補足すると・・・

>1600年(慶長5年)に家康の次男である結城
>秀康が68万石で北ノ庄を拝領すると、翌
>1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し
>築城に着手した




>1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され
>名実共に御家門の居城にふさわしい城となる
>よう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の
>歳月をかけて完成する。完成した城は東が
>新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口
>馬出までの2キロメートル四方に及んだ




>石垣の積み方は、天守台、大手門、櫓台、隅角
>部等の重要な部分は切込はぎ積で、その他の
>城壁は打込はぎ積である。また、横線が波立って
>いるが布積である。福井市小山谷町で産出した
>笏谷石を用いている。 石垣の構築には、穴太積で
>有名な穴太衆も携わったことが推測される




>明治維新後、1871年(明治4年)、福井藩は
>福井城の解体を幕府に願い出、旧城地は1873年
>(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士
>たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、
>開墾を進めた 




> 現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、
>天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、
>県会議事堂、県警察本部などがあり、公園と
>しても整備されている(中略)本丸御殿の一部は
>(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築
>されている




さてさて、この城は徳川家康の次男の結城秀康が
初代城主であるが、それについて説明してみると
家康は正室の築山殿との間に、嫡子の松平信康が
いたが、信長の命令で切腹をさせられてしまった
本来であれば秀康が継ぐはずであったが、生母の
身分の違いから、西郷局の子で三男の徳川秀忠が
二代将軍となった




徳川でもなく、松平でもなく、なぜ結城を名乗る
事となったのか、ウィキペディアによれば

>天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男
>として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は
>三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の
>娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称
>おこちゃ、小督局)幼名を於義伊(於義丸/
>義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・
>家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。




>その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に
>思った兄・信康による取りなしで実現したもの
>であったという。天正12年(1584年)の小牧・
>長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の
>条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は
>人質)として差し出され、家康の後継者は異母
>弟の長松(後の徳川秀忠)とされた




>母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹
>前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと
>考えられる。羽柴秀吉の養子として「羽柴三河
>守秀康」と名乗る。秀吉に実子の鶴松が誕生
>すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の
>後継者として指名。そのため他の養子同様に
>再び他家に出される




>秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる
>加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子と
>することを考えついた。結城氏は下野国の守護に
>任命されたこともある名家であった。秀康は関東に
>下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻
>して結城氏の家督および結城領11万1,000石を
>継いだ




>関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万
>1,000石から越前北庄68万石に加増移封
>された。慶長9年(1604年)には松平氏に
>復することも赦されているとする史料も
>存在する

僅か34歳で、梅毒で亡くなったそうである




梅毒の日本での最初の記録は、1512年の
記録で、南蛮からもたらされたそうであるが
加藤清正、浅野幸長、前田利長、黒田官兵衛
といった名高い戦国武将も梅毒で亡くなった
という説もある。キリスト教や鉄砲以外にも
そんな迷惑な南蛮渡来もあったなんて




さてさて本丸御殿と、天守は内堀の中にあるが
何代目かの藩主から、西三の丸に屋敷を構えて
そこで暮らしながら、政務は本丸御殿の政庁で
行う為に通うようになった




藩主がその移動の際には、雨のなどで濡れ
ないよう、橋にも屋根がつけられて、本丸と
西三の丸御座所を結ぶ「御廊下橋」が、往時の
姿に復元をされていた、は2008年3月に完成
橋の長さ14.5メートル。幅3.6 メートル
総工費は約1億5900万円だそうだ




それに続く「山里口御門」も、復元整備を開始し
2017年10月末、櫓(やぐら)門、棟(むな)門の
建物と白壁の土塀が完成をした




完成をした櫓門は、木造2階建ても切り妻造りで
笏谷石(しゃくだにいし)による瓦葺きである
2階部分の櫓の外壁は漆喰塗りで、梁(はり)は
マツ、床、壁板、柱にヒノキを使用している




それにしても何だかんだいっても、徳川家康の
次男の城だけあって、その辺の大名のものとは
違った、凝った造りで目を見張るものがある

ウィキペディアによれば、その天守は




>本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣を
>ついて望楼型4重5階の天守が建てられた。
>高さは、天守台も含めて約37メートルにも
>及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上
>重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風が
>あり、元和大坂城天守に見られるような配置に
>破風が並べられていた




>寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように
>類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し
>天守の代用としている。古写真では、複合式
>望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあること
>から、3重5階の櫓であったと見られている




>福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)
>6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に
>北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震
>ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市
>丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃し
>都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)




>大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・
>淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
>などと並ぶ日本の災害史上最悪クラスの震災となった
>2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ
>戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時
>あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および
>現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は
>日本の近代史上でも類をみない。




>福井市中心部は昭和20年の福井空襲で壊滅してから
>数年後、復興途上でバラック建築が多く、不安定な
>構造だったためにかなりの建物が倒壊している。

福井市内の死者930名、負傷者は10,000名。建物は
全壊12,425棟、半壊4,418棟、焼失1,859棟といった
有様であった。福井地震で崩れた石垣がそのままに
残されていた



もともと福井にあったお城は、戦国ドラマでもとても
有名な北ノ庄城であった。しかし福井藩第三代藩主の
松平忠昌が、北は敗北に通じるとして嫌って、縁起の
良いよう「福の居る場所」という意味で「福居城」と
したのが、後に今の「福井城」と改められたそうだ




福井城の天守台には、北ノ庄城(後の福井城)築城
当時からあったという「福の井」があり、こちらが
福井の語源では?なんて説もあるそうだ。そこで
汲まれた水を使ったお茶を振舞って貰えた




福井県は、フクイサウルスをはじめとして恐竜の
化石が多数発掘をされたことから「恐竜王国」と
呼ばれおり、恐竜をモチーフにしたマスコットが
いろいるようで、この子は昨年の福井で開催を
された「福井しあわせ元気国体」のマスコットの
「はぴりゅう」




ステゴザウルスをモチーフに、やる気を表現する
ために赤いツノを付けた架空の恐竜で、国体の
キャラクターなので、ジャージを着ているそうで
福井工業大学の学生さんのデザインが、公募で
採用されたようだ




恐竜王国だけに、福井の駅前にも巨大な首長竜が
お出迎え。という訳でいよいよ北陸の7つの城も
最後の訪問先へとバスは向かった




           平成31年4月6日に越前福井城で撮影

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最終更新日  2019年06月13日 23時33分56秒
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2019年06月05日
カテゴリ:旅のいろいろ


雲海(朝霧)に浮かぶ姿が、まるで天空の
城のようだと、竹田城址​が知れ渡ったのは
平成24(2012)年の高倉健の最後の
主演作品となった、映画「あなた」からで
降籏康男監督は、今年5月20日に亡くなら
れたそうだ




今でこそ鉄道員(ぽっぽや)を代表として
高倉健とのコンビが有名だけども、多岐に
渡る作品を監督されており、へ~この作品も
なのかと驚かされる。山口百恵のTVドラマ
赤いシリーズにも参加されていたそうだ




降籏監督は信州松本出身だそうで、3丁目
シリーズの山崎貴監督もまた松本だ。城の
話からそれたが、天空の城としてブームと
なった竹田城に続けとばかりに、全国各地の
城も名乗りを上げた




岐阜県などは山と川しかないような地形が
功を奏して、郡上八幡城、岐阜城、苗木城
岩村城と4つの城の名が、天空の城として
挙がる場合が多い。全国的には現存天守が
雲海の上に浮かぶ「備中松山城」がお勧め
らしい。行ってみたいなぁ




4月に娘と出かけた桜咲く北陸の7名城巡り
にも、前から行ってみたいなぁと思っていた
天空の城で売り出し中の越前大野城がコースに
入っていたので、参加をする決め手となった
(あと越前丸岡城も)。JR西日本の越美北線
(九頭竜線)の越前大野駅。さて越前大野を
ウィキペディアで紹介すると




>天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆
>討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に
>進攻。一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる
>亀山に大野城を、その東麓に城下町を造り始めた。
>これが現在の大野市街地の起こりである。以後
>今日まで、大野市は奥越地方の中心地として
>栄えてきた




>山頂にそびえる天守と短冊状に区切られた
>町並み、中世から近世にかけて築かれた寺院が
>甍を連ねる寺町通り、城下町誕生のころから
>続くとされる七間朝市など、400年を超える
>歴史を彷彿とさせる景観を今も色濃く残して
>いることから「北陸の小京都」と呼ばれている




>1888年4月8日、大野市(当時は大野町)で
>1000棟以上を焼失する大野大火が発生。以後
>この日にあわせて消防訓練が毎年行われている。
>また、2008年には40年ぶりに消防隊のラッパ
>隊が復活した。




川の水がとっても綺麗だ。山頂に城のある亀山の
すぐ下にあるバスの停車場からは、それぞれの
ペースで山を登り、旅行代に入場料が含まれて
いるので、みんなが揃ってから城の中を見学
するそうだ。城と言っても中は資料館だ




越前大野城がそびえる亀山の南側を流れるのは
金森長近が、天正4(1576)年頃に越前大野城を
築いた際に、外堀として掘られたという新堀川で
川沿いに湧く新堀清水は、ふくいのおいしい水に
認定されている




見上げた先には越前大野城。ウィキペディアに
よると・・・
>1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を
>平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を
>与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした
>戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を
>築き始めたのが越前大野城の始まりである




>築城に数年間を要した。その後、越前松平家が
>3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで
>目まぐるしく城主が替わった。城は1775年(安永
>4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を
>除いて再建されたが、明治維新後に破却されている




>山頂の石垣および堀が現存し、山麓部にも内堀および
>外堀の一部が残る。建造物としては、不明門が市内
>中丁真乗寺山門として、櫓門であった鳩門の門部分が
>光明寺山門として、それぞれ移築され現存する。また
>8代利忠の隠居所が柳廼社社務所として移築現存する




>天守は、亀山の山頂にある天守曲輪に建てられた。
>本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、
>天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が
>付属された複合連結式の天守であったが、1795年に
>焼失して以降、再建されないままであった。




>現在山頂に建つ天守は、1968年(昭和43年)に元
>士族の萩原貞の寄付金を元に、往時の絵図や創建当時の
>同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造に
>よって推定再建されたものである。しかし、小天守が
>天狗の間の位置に建てられていることなど、史実に
>基づいた復元再建ではない




>復興天守の内部は、金森氏や土井氏など歴代の城主に
>関する資料を展示した資料館として利用されている。
>12月から翌年3月までは閉館となっている。2014年に
>有志による「ラピュタの会」が結成され、「天空の城
>大野城」の知名度向上に努めている




狭い山頂部に石垣が、築かれての天守なので
なかなか天守の全貌を、まじかに眺められる
事がなかったが、どこかにそんなポイントが
あるのかもしれない。今回はガイドがいない
ので、バスの最短ルートからの往路、帰路は
かんな感じで




遂にここで銅像ゲット。第七代藩主の土井利忠
である。藩政改革、教育制度の整備、軍制改革
などで大きな実績を挙げて、樺太開拓を目指す
などスケールの大きい名君であったそうだ




日本の瓦屋根に桜が良く映えてます。とは
言っても、天守脇にあった和風なおトイレの
屋根なんですが




こちらは、天守の上の方から見たおトイレの
屋根越しの桜。それにしても良い瓦を使って
いるなぁ~。いぶし銀?




それにしても桜の一番良い時期に、この
城にも来れて良かったです。最初の富山県
北部の舟川、春の四重奏以外はどこも桜は
満開と言った感じでした




今回の桜咲く北陸のなつの城の団体旅行は
まだ10日近く後の日程もあるので、それに
参加される人も桜が楽しめるように、時期が
ズレそうな、遅めの桜の名所も組み込んで
あるのだろう




このお城は戦後に建てられたもので、中は
資料館なので、写真撮影も出来なかった
遠くに見える東側の白い山々。あの向こうは
岐阜県だ。高山もその彼方




そんな訳で越前大野城について、大体
説明も出来たので、ここからは近況と
いう訳で、来年夏の東京オリンピックで
全国をまわる、聖火のコースが発表に
なりましたね




長野オリンピックの時には、長野県内を
まわりまして、その当時は長野県だった
「馬籠宿」もコースになって、私も見に
出かけました。娘や息子らは越県通学で
岐阜県中津川市の小学校に、通学をして
いましたが




すぐ近くなので学校から、みんなで応援に
来ていました。その時にスポンサーなんで
しょうか。あったかな缶コーヒーを配って
まして、娘は缶コーヒーを初めて飲んだと
今日も話してました




平成の大合併で「馬籠宿」は、岐阜県に
なりましたが、今度は岐阜県のスタートと
して聖火がやってくるそうです。しかも
週末のようで、娘も見に行けると喜んで
ますよ




結構、全都道府県のあちこちに聖火が
まわるようなので、皆さんもお近くで
ご覧になれるかもしれませんので、要
チェックです。それにしても馬籠宿は
かなりの坂の宿場町なのですが




馬籠宿の一番下側でセレモニーがあって
ラストは、宿場の一番上のはずれにある
展望台って、あの坂を上るんだろうか?
箱根駅伝の山の神クラスの人じゃないと
きつそうだけど、どんなんだろう




皆さん、時間前には下山されてお土産屋を
のぞいたり、のんびりしたり・・・・再び
バスに乗って、お昼を食べに福井市方面へ
戻ります




それにしても、日本の田舎町と言った
風情があり、なかなかのんびりとした
素敵な町ですね




私も周囲を山に囲まれた田舎町で生まれ
育ち、今も住んでますので、こういった
風景は親近感もわきます




あの山はなんていうんだろう。4月に
なっても白いまま・・・。今年の春は
遅くまで寒かったので、恵那山も白い
時期が長かったです




走行中のバスのからの風景写真ですが
なかなか良い感じで撮れました




遠くに見える銀色に輝く丸いのが、勝山の
世界三大恐竜博物館とも言われる福井県立
恐竜博物館だそうです。見に行きたいなぁ~




富山城、高岡城、金沢城、丸岡城、大野城
と、5つのお城をまわりました。残す所は
あと二つ、どこのお城でお花見が出来るの
だろう。続く




            平成31年4月6日に越前大野城で撮影

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最終更新日  2019年06月05日 17時03分05秒
コメント(69) | コメントを書く
2019年05月27日
カテゴリ:旅のいろいろ


前の日記にも、城に桜は似合うとの
コメントを​幾つも頂戴したが、高岡城と
同様に、日本の桜名所100選に名を
連ねる城は27つあり、日本100名城
にも兼ねている城も多い




今回の日記で紹介をする越前丸岡城も
どちらにも選定をされている桜の城だ
別名を霞ケ城といい、桜の名所の方は
霞が城公園の名称となっている。そして
何と言っても日本でも数少ない、江戸
時代の天守が残る城でもある




娘と出かけた桜咲く北陸の7名城のツアー
2日目はここ丸岡城からスタート。こちらも
桜が満開であり、しかも雲一つない晴天で
青空に桜と城が良く映え絶好のお花見日和だ




坂井市丸岡観光協会キャラクターの城丸
くんは、丸岡町町制100周年と町村合併
35周年を迎えた平成元年に誕生をして
丸岡城のPRキャラクターとしても活動中だ




こちらもボランティアガイドさんがお城の
説明をしてくれ、まずはガイドさんお勧めの
お城と桜の写真スポット。入口から反対側に
回り込んだ所なので、もし個人で行けばここ
から写真を撮る事はなかったと思う




やっぱ現地の事を良く知るガイドさんがいて
こそといった事も多い。こういうガイド付きの
ツアーというのも面白いかも。さて現存天守を
おさらいをすると、世界遺産の姫路城を筆頭に
松本城や彦根城、犬山城が国宝だが、最近には
重要文化財だった松江城が国宝に昇格をした




弘前城、備中松山城、丸亀城、伊予松山城
宇和島城、高知城が重要文化財に指定されて
いる。戦前には20の城が残されていたけど
空襲などで焼失をしてしまった。ここ丸岡城
は戦前は国宝であったそうだ




なんでも、昭和4(1029)年に施行を
された国宝保存法にもとづくもので、現在の
国宝と区別する為に、一般的に「旧国宝」と
呼ばれている。昭和25(1950)年に
国宝保存法が廃止され、文化財保護法に切り
替わったて、旧国宝は全て重要文化財となった




そこの中でも価値が高いものが、改めて「国宝
(新国宝、現国宝)」に選ばれているそうだ
ここ丸岡城も以前は旧国宝だったが重要文化財の
ままだ。というのも昭和23(1948)年の
福井地震で天守が倒壊




古材を用いて、元のように組み復元されている
そうで、そんなあたりも理由であるかもしれ
ません。小さなお城ですしね。それでも日本で
一番古い天守であると言ってましたが、それも
今春になって、柱などの部材を調べた結果から




建てられたのは江戸期の寛永年間(1624〜
44年)だった事が判明。1593〜94年に
大天守と渡櫓、乾小天守が完成したとされる
松本城の方が古いそうだ。続くのは犬山城の
1601年、彦根城の1606年なんだとか




しかし、松本城は乾小天守のみが先に造られて
天守は江戸時代からだとか、犬山城は1537年
には現存天守の2階部分までが完成をしていた
といった説もあるので、一概にには断定出来ない




てこてこと坂を登れば、あっという間に天守が
目の前に現れた。岩村城とか山城なのでふ~ふ~
は~は~と言いながら登城をせねばならないが
丸岡城は年配観光客にも優しいお城であった




元は木彫銅板張りの鯱であったが、戦時中に銅板が
不足をしており、この石製のものと差し替えられた
そうだが、福井地震の倒壊による修復時に、再び
木彫銅板張りの鯱が屋根に乗せられたそうだ




ではでは入城をしてみようか。添乗員さんの
了解を得て、この時点でガイドさんから離れ
娘と二人で先行をした形で見学をしていた。
ウィキペディアによると・・・




>福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い
>独立した丘陵に築かれた平山城である。
>近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の
>内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造
>されたと推定される天守は重要文化財に指定
>されている




>その他、石垣が現存している。移築現存する
>建物として、小松市の興善寺および、あわら市の
>蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の
>民家に、不明門と伝わる城門がある




>ほかに土塀が現存する。「霞ヶ城」の名の由来は
>合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したと
>いう伝説による




城の変遷は・・・
>1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ
>一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により
>築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に
>移った。




>1582年(天正10年) 本能寺の変の後の
>清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に
>移された。代わって勝家は安井家清を
>城代として置いた。




>1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉に
>よって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は
>丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主と
>して青山宗勝(修理亮)を置いた。




>1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地は
>そのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山
>宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者
>である西軍方につき改易された。越前国には
>勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、
>丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を
>与えられ入城した。




>1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に
>連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に
>附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主と
>なった。




>1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、
>不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封
>などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩
>より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。




>1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の
>丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により
>改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川
>藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の
>居城となり明治維新を迎えた。




>1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり
>天守以外全て解体された。1901年(明治34年)
> 残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を
>免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた
>堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に
>埋められ消滅した。




>丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も
>崩れて工事が進行しなかったため、人柱を
>立てることとなった。城下に住む貧しい片目の
>未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる
>事を条件に人柱となる事を申し出た。




>その願いは受け入れられ、お静は人柱となって
>土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。
>しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を
>士分にする約束は果たされなかった。それを
>怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという




>毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に
>見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。
>現在城内にはお静の慰霊碑が残っている

ウィキペディアから転載させていただきました
大蛇はここから出た話なのですか・・・




松江城に行った時にも人柱の話が出ていたし
全国各地のお城でもよのような話はよく聞く
城の周囲には様々な碑があったが、顕彰した
ものとかいろいろのようだ




こちらは戦争で亡くなった方たちの忠魂碑
時代がかわろうと、お国の為、大義の為に
尊い命をささげた人たちの事は忘れては
いけない




下城して、今度は城の表側から桜越しに
お城を見上げてみた。ここの桜は殆どが
染井吉野のようだ。手前のピンクの濃い
のは枝垂れ桜かな?




その日は土曜日でもあったので、お花見
時期の週末でイベントなどもやっており
地元の皆さんもご家族で遊びに来ていた
ようだ




のんびりと、浅い池で泳ぐ鯉をのぞく
お父さん




旧国宝であった丸岡城を、再び国宝に
するのは、地元民の悲願でもあるようだ




お城のふわふわ遊具や




消防車も、お城のイラスト入りだし




城下町らしい古い門は、移築されて北国
ものだが、この門をくぐった先にあるのが
一筆啓上日本一短い手紙の館である。一筆
啓上とは,簡単に申しますと・・・と言う
手紙の書き出しに使う言葉であるが




武勇に秀でて気性が荒い事から「鬼作左(おに
さくざ)」と呼ばれ、三河三奉行の一人である
本多重次(丸岡藩初代藩主成重の父)が、天正3
(1575)年の長篠の戦いの陣中から、妻に宛て
書いた手紙が、日本で一番短い手紙として有名で
その書き出しが、一筆啓上なのだ




「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」で
お仙とは、跡継ぎの仙千代(成重)で、男子は
この幼子しかいなかったようだ。後に仙千代は
豊臣への人質として、秀吉の養子となった結城
秀康(家康の子)の小姓として大坂に送られた
時期もあった




越前北ノ庄藩初代の藩主となった結城秀康の
子の松平忠直の附家老として、本多成重は越前
丸岡藩4万石を与えられている。そんな事から
一筆啓上賞日本一短い手紙コンクールが、毎年
行われて、昨年のテーマは先生で、国内外から
4万近い応募の中から大賞5作が選ばれた




その受賞者は7歳から86歳と幅広い年齢層から
支持されているようだ。という訳で2日目の最初に
出かけたのは現存天守、丸岡城であった。次は
どんなお城へ向かうのだろうか。続く!




          平成31年4月6日に越前丸岡城で撮影

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最終更新日  2019年05月27日 20時21分30秒
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2019年05月21日
カテゴリ:旅のいろいろ


​さてさて開催中の信州花フェスタの​日記を
優先し紹介をしましたが、再び4月上旬に
娘と出かけた、桜咲く北陸7城巡りのバス
ツアーの日記に戻るとする。富山城に続き
紹介をするのは「高岡城」である




ウィキペディアで紹介をすると
>1605年(慶長10年)6月28日、富山城に
>隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の
>1609年(慶長14年)、富山城下の町人地
>から出火した火災の類焼により、城内の
>建築物の大半を焼失したため、利長は魚津
>城に移り、




>大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の
>報告と、関野に築城の許可を貰う。利長は
>築城の方針に伴うため、資材調達を小塚
>秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、
>魚津城から築城の指揮を取り、同時に
>城下町の造成も始めた




>縄張(設計)は当時の前田家の客将だった
>高山右近とされている。同年9月13日、利長は
>「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡
>城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉
>から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された
>伏見城秀次邸の良材を使って建てられた
>とも伝えられる。




>しかし、1614年(慶長19年)5月20日に
>利長は死去(享年53)し、隠居城として
>使われたのはごく短期間であった。その
>翌年の1615年(元和元年)には一国一城
>令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を
>待って高岡城は廃城となった




>(その代わり加賀国に小松城を築くことが
>ゆるされた)ただし、廃城時期については
>1638年(寛永15年)とする異説もある。
>しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の
>管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・
>番所などが置かれ、軍事拠点としての
>機能は密かに維持された




>これは加賀藩の越中における東の拠点で
>あった魚津城も同様であった。街道の
>付け替えの際には、濠塁がそのまま残る
>城址を街道から見透かされるのを避ける
>ため、町屋(定塚町)を移転して目隠しに
>したといわれる




>また、廃城後に利長の菩提を弔うために
>建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える
>利長の墓所自体も高岡城の南方の防御
>拠点としての機能を併せ持つものとして
>配置されたと考えられている




>郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶
>丸の五つからなるが、現在では「御城外」と
>されている小竹藪や梅林も、これに加える
>ものと考えられている。(中略)基本的な
>プランは利長の先の居城であった富山城
>との類似性が見られ




>その発展型とみることができる。今なお
>築城当時の濠塁をほぼそのまま残して
>おり、総面積の約21万m2(71,261坪)の
>内、約3割(24,400坪)が人工の堀である。
といった感じで、ウィキペディアを丸写し
させていただき、




高岡城址を紹介させていただきました。日本
100名城の他に、桜の名所100選にも
選ばれている。江戸時代には前田家の防衛を
担っていた高岡ですが、ここ最近は違った
意味で脚光を浴びてますよ。「令和」で~




鶯(うぐひす)の鳴き散らすらむ春の花
      いつしか君と手折(たを)りかざさむ 
天平19年(747年)2月29日、病気で
あった大伴家持が、大伴宿祢池主に贈った
悲しみの歌です。万葉集を編纂したと伝わる
大伴家持は、越中の国守として高岡に赴任




5年間の在任中、高岡で様々な万葉の歌を
残しました。中には私が学生の頃から好きな

もののふの八十娘子(やそおとめ)らが
   汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子の花




なんてものもある。堅香子(かたかご)とは
今はジャガイモで代用される片栗粉を、本来
根茎からとる、かたくりの古来の名前である
高岡城址にも、愛らしい堅香子の花が咲いて
いた




令和は万葉集の大伴旅人(家持の父親)による
歌からとられており、その舞台となった大宰府が
注目されているが、その子の大伴家持の赴任先
だった高岡もまた、万葉集がらみで盛り上がって
いるようだった




この花は染井吉野ではないんです。固有の桜と
いうと信州高遠城に咲く高遠コヒカンザクラが
天下第一の桜として有名ですが、こちらの花は
10年ほど前に、新種として認定を受けた
「タカオカコシノヒガン」桜だそうです




もともと富山県南砺市に自生地がある「コシノ
ヒガン(越の彼岸)」という桜は知られていた
のですが、「タカオカコシノヒガン」は花びらの
丸みが強く、やや波打った形状をしているが
特徴だそうだ




それにしてもノッポな桜だ。高岡城築城の際に
太田村の宗右衛門という者が砺波地方の山桜を
献上して植えたのが始めで、高岡城に隣接して
馬場が設置され、その両脇には宗右衛門由来の
山桜が植えられ、歴代の藩主の手厚い保護の
もとで育成されたそうです




その他にも高岡城址には「コシノカモザクラ」
という新種の桜も咲いているのだという。桜の
園では、華やかな衣装の花婿さんと花嫁さんが
記念撮影を行っていた




高岡城址にはこのような新種の、珍しい桜の花
などの他にも、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、
エドヒガン、ヤマザクラなど18種、1800本
もの桜が春には咲き乱れている




今回の北陸の7つの名城を巡るバスツアーでは
幾つかのお城で現地ガイドがつくのだが、私の
班の担当の女性は、お濠とお花や万葉集が中心
だったので、ぬぁんと前田利長の騎馬像なども
観る事なく終わる・・・




堅香子の花の近くの、こんな猿の写真は撮れたの
だけど。。。娘も暇そうで添乗員さんが別行動を
とってもいいですよ~と言ってくれたの、素直に
聞いておけばよかった。でも別行動だった場合
「タカオカコシノヒガン」に気が付かなかった
可能性は高そうだ




と言った訳で、本来であればこれで山中温泉へ
向かうはずだったが、最終日に行くはずだった
金沢城に急遽立ち寄る事となった。その方が
明日のルートが戻らなくて効率が良いらしい
だったら最初からそうゆう日程で組めばいい
のに・・・と思いつつ




金沢城に着いたのは午後5時半近くで、近くの
バス駐車場から、添乗員が城の前まで送って
くれて、そこからはフリータイム。集合時間
までには、自分たちでバスまで戻るという話
だったけども




城門に着いた時点で、閉門の30分前~~
たった30分しか時間がないのか。これでは
櫓の中の見学どころか、満足にお城の中も
まわれるか心配だ。他の奥様方は最終日の
金沢が楽しみだったようで、時間はないし
こんな夕暮れに!と、かなり文句が出ていた




娘も、目の前の兼六園も行ってみたかったと
言うので、入口の灯篭位しかないぞとか、冬の
雪吊りがないとな・・・と。駆け足の金沢城も
とりあえず石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫の
重要文化財は、外観をおさえたいところだ




30分しか拝観時間がないので、とにかく
速足でてくてくと・・・石川門は一番最初に
入場をした桜に囲まれた門なので、まずは
1つ目をゲット~!。再びウィキペディアに
説明をお願いすると




>金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野
>川とに挟まれた小立野台地の先端に築か
>れた、戦国時代から江戸時代にかけての
>梯郭式の平山城である。櫓や門に見られる、
>白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)
>壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、




>櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋
>破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
>この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の
>寺院である「尾山御坊」であった。寺とは
>いうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と
>同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞
>でもあった。




>織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を
>築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の
>戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を
>前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)
>から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の
>天守や櫓を建て並べた




>兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に
>付属してつくらせた大名庭園である。なお金沢の
>地名は室町時代の文明年間には既に存在していた
>ことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の
>小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあった
>ことから尾山の呼称が使われていた




>佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が
>強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田
>利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対
>して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の
>出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。




>だが、金沢の地名が広く知られていたために
>尾山城の名前は普及せず、利家自身も再び
>金沢の城名を用い始めたと推測されている
>城址は明治以降、存城とされて軍施設が
>置かれたため建物の一部を残して撤去され、
>第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年
>まで置かれていた




こんな薄暗くなって!と奥さんたちに不評の
閉園間近の金沢城フリータイムだが、私は
結構好きかも。「逢魔時(おうまがとき)」と
いうような薄暗くなってきて、人もひいた時の
静けさは、より印象深く感じる事も出来る




これまでにも閉まる間近の夕刻に出かけた
奈良の東大寺大仏殿や、京都の三十三間堂
などは拝観者がいなくなり、独り占め気分
かけがえのないひと時となった。この城も
お花見客も多く真昼は大変な人出であった
だろうに




こちらが2つめの重要文化財の「三十間長屋」
安政5(1858)年に再建されたもので、金沢城
には、この他に全部で14の長屋があったと伝え
られている。元は軍備倉の堅固な造りで千飯が
貯えられていたらしいが、後には鉄砲蔵とも
呼んでいたそうだ




加賀百万石の前田家の居城である金沢城である
だけに、城内には見どころなどもあるけど時間が
ないから、横目で眺めつつも早足でスルー。さて
金沢城には天守閣はなかったのだろうか。どう
やら当初は天守閣を造ったのに、僅かな年数で
落雷のため焼失




その後は天守閣が再建をされないままで、廃藩
置県を迎えたそうだ。理由は財政的に厳しい事と
戦いに直轄をするような天守を作ることで幕府に
対して反乱でも起こす意思でもあるのかと疑いを
かけられたらいけないので。それに江戸期などは
天守がなく、櫓を代用した城が多かった




第一、江戸城自体の天守も、明暦の大火により
寛永度天守が焼失してしまい、今も残る御影石の
天守台が、加賀藩主の前田綱紀によって築かれれ
計画図も作られたが、保科正之が「天守は織田
信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の
守りには必要ではない」と言い、江戸の復興が
優先された




江戸幕府が盤石になったので戦いの為の天守は
もう時代に合わなくなったのかもしれない。とは
言っても江戸期に作られた天守もあったようだが
さてさて重要文化財の金沢城土蔵の「鶴丸倉庫」




武具蔵として嘉永元(1848)年に建てられた
大型の土蔵で、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で
加賀藩大工の山本勝左衛門が普請を手がけた、明治
以降には、軍隊の被服宗箇などとして利用がされて
いたそうだ




このようにお城の塀などは作られているといった
わかりやすい実物模型とか




時代による城の石垣の変遷なども。初期の野面積み
などから、後期の切石積みなどを、石垣の内部が
どうなっているのかなどもわかって参考になった




金沢城は天守はないが、石垣も見どころだそうで
時間があればそれらを楽しみもしたかった。それに
前田利家の像もあったらしいが、気が付かなかった
高岡城の利長に続いて、金沢城の利家も・・・(泣)




閉門時間の午後6時ちょうどには、石川門に
戻ってきました。ここからバスの駐車場まで
数分。集合時間は6時10分です。石川門の
説明を最後になりましたが・・・




金沢城の搦手門(裏門)として、重要な位置に
あり、河北門、橋爪門とともに「三御門」と
呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形
門で、宝暦の大火で焼失したが後に天明8年
(1788)に再建をされた




金沢城の中には入れないが、石川門の真下とか
周囲では、お花見客が宴会などをして賑やか
だった。金沢らしいお店もいくつも並んでいたが
素通り、写真だけパトリ。そんなんで集合時間
前にはバスに戻ったが、慌ただしく添乗員さんが
バスから降りて。。。




石川門から反対側に行ってしまい、戻ってこない
お客さんがいるようで、携帯電話で連絡しあって
10分程で、バスに戻ってきた。携帯電話が無い
時代は大変だっただろうなぁ・・・こうして舟川と
富山城、高岡城、金沢城の見学を終え山中温泉へ
向かった。ではでは、続く~!




          平成31年4月5日に高岡城、金沢城で撮影

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最終更新日  2019年05月25日 21時25分56秒
コメント(76) | コメントを書く
2019年04月27日
カテゴリ:旅のいろいろ
​​

いよいよ今日から平成から令和へと、年号を
またぐ連続10日間のゴールデンウィークだが
低気圧が続けてやってくる関係から、芳しく
なく、お勧めなのは28日、2日、5&6日で
あるらしい。娘とのお出かけ予定は雨予報




今更、ホテルをキャンセルするのも気の毒
なので雨覚悟でドライブ。曇り時々雨レベル
だったらいいけど。北海道は雪予報だとか
雷とか不安定な天気みたいですよね。今日も
すごく冷たい風で、冬物残してて良かったし




さてさて、4月5日に娘と出かけた1泊
2日の北陸三県のバス旅ですが、最初に
バスが向かったのは富山県の一番、東に
位置する朝日町で、真っ白な北アルプスを
望む海辺の街だ




今回の旅行の最初の観光先は「あさひ
舟川春の四重奏」といいまして、地元の
皆さんの手入れで素晴らしい春の景色が
望めるというもので、チューリップと
菜の花、桜並木、残雪の朝日・白馬岳に
よる四重奏なのだが寂しい




会場にあった看板によればピーク時には
このような素晴らしい四重奏となるそう
ですが時期が少し早かったみたいですね
今年の場合、あと数日後の10日あたり
から見頃だったみたいで




チューリップも、いろんなのが植えて
あったんですが早咲きなのか、この花
だけが綺麗に咲いてました。あと数日も
すれば、他の花も咲きだして花の絨毯に
なるみたいです




菜の花は、この一角だけ咲いてまして
この後、畑の一面が菜の花畑になるの
だろうか。フェイスブックとか見ると
確かに、ピーク時には今年も綺麗だ




肝心の主役の桜が、まだ咲きかけなのを
アジア系外国人観光客の団体客も、残念
そうに写真に撮っていた。私が参加をした
1泊2日の北陸三県の桜旅は、旅行日程が
4月上旬~中旬にかけての10日間から
選択するタイプだったので




うちのように早い時期のお客さんも
中旬を選んだ遅めのお客さんも桜が
楽しめるように、早咲きのものから
北部の遅めのものを、チョイスして
いたんじゃないかと思います。桜が
全く見れないのはサイアクですから




ですから後半の日程の皆さんは、きっと
看板通りの素晴らしい四重奏を楽しまれ
たんじゃないかと思いますよ。まぁ雪も
降るような4月アタマの寒波到来がなけ
れば、もう少し咲いていたんじゃないか
そんな気持ちもあります




舟川の桜並木は、松山ケンイチ主演の
山岳映画「春を背負って」のタイトル
バックにも使われたものです。あれを
見て、見に行きたいなぁ~とは思って
いたんですが、わずか数日のずれでも
桜は見れません




いかに、事前に予約をしている桜の旅が
難しいのか。うちからは高山経由で車で
4時間程度で行けると思うし、直前まで
キャンセル料のかからないホテルの予約
でもしておいて、咲き具合から個人で
行くしかなさそうですね




でもね、そこの係の人が言ってましたけど
昨日まで雨が降ったりして、空気が綺麗に
なったから、今日の北アルプスはとっても
美しく見えるそうでして。う~む、これで
桜が咲いてたらさぞかし素晴らしい風景が




行きの高速では、山の反対側に座っていた
ので見れなかったが、今度は逆向きになり
車窓から、散居村の向こうに北アルプスが
バッチリ見れて、もう釘付けだ




飛騨から砺波に出て、富山県の西から
1時間はかかって、東端の朝日町まで
桜がまだ咲いてない舟川まで行ったが
このような素晴らしいパノラマを見た
のだから文句などない。山を楽しむ為
出かけたようなものだ




楽天ブログを始めた頃から知っている
越中おわら節をされてい富山県の方が
よく、北アルプスの写真を載せられて
いて、いいなぁ~と写真では眺めていて
数年前の夏に、家族ドライブで出かけて




それ以来の山の光景。しかも高速道路から
なので、街中を走る一般道より高い位置
から、ずっと山を眺められていられるし
奥の鉄橋は新幹線




朝日町から富山市までを、撮った順番に
写真を載せてます。どのあたりからとか
山の名前はサッパリわかりません。さて
今回の旅行は、1月に上海旅行で利用を
した、阪急交通社トラピックスのメール
広告で知りました




本当は春には中国の北京旅行で、娘と
万里の長城や紫禁城、パンダを見に
行こうと思ってましたが、この桜の
旅行を見つけて乗り換えました。それ
程、自分の琴線に触れるものがあった
訳でして




名古屋発1泊2日で、3万円ポッキリで
桜咲く7つの北陸の名城と、舟川四重奏
ここでも、100名城の話をしたばかり
ですが北陸地方のお城って、北ノ庄城と
金沢城しか行った事が無くって




隣県であっても、なかなか行く機会に
ない北陸三県で、あちこちに点在する
城を今後も、全部見る機会はなかなか
ないだろうし、この機会に一気に見て
しまおうと。しかも桜の咲くお城って
一年で一番、華やかではなかろうか




天空の城で売り出し中の地元の苗木城址の
ライバルの「越前大野城」とか、準地元的
扱いの松本の、松本城の日本最古ライバル
現存天守の「丸岡城」は最近もニュースで
やってたばかりだし、もうワクワク




富山城、高岡城、金沢城、丸岡城、
越前大野城、北ノ庄城、福井城との
富山、石川、福井三県にまたがった
桜咲く北陸の7名城、その中には日本
さくら名所100選に選ばれた城も
あります




といった訳で、富山県の県庁所在地の
富山市街に入りました。このあたりは
神通川の下流域で、複合扇状地の恩恵を
受け、大化の改新よりも前から北陸道に
おける農作地であったそうだ




旅情をそそるレトロな路面電車が走って
いましたよ。富山地方鉄道が運営をする
路面電車(軌道路線)は大正期に始まり
地元では「市電」「富山市電」と呼ばれ
親しまれているそうだ




北陸7城のうちの最初の訪問先の「富山城址
公園」に着きました。ウィキペディアによると

>富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる
>越中中央の要衝であり、富山城は16世紀
>中ごろ越中東部への進出を図る神保長職に
>より築かれたとされる




>神通川(現在の松川)の流れを城の防御に
>利用したため、水に浮いたように見え、
>「浮城」の異名をとった。当時の神通川は
>富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、
>その南岸に富山城は築かれていた。




>室町時代の越中守護は三管領の畠山氏で
>あったが越中には来任せず、東部を椎名氏、
>西部を神保氏を守護代として治めさせて
>いた。富山城は1543年(天文12年)頃に
>越中東部の新川郡への進出をもくろむ




>神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名
>氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に
>家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に
>命じて築城したとされる。しかし最近の
>発掘調査により室町時代前期の遺構が発見
>され、創建時期はさらにさかのぼると
>考えられている




>長職は1560年(永禄3年)、椎名氏を支援
>する上杉謙信の攻撃により富山城を追われ、
>神保氏の在城は僅かな間であった。その後、
>富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的と
>なったが、1578年(天正6年)、長職の子と
>される神保長住が織田信長の後ろ盾を得て
>富山城に入城した




>しかし、1582年(天正10年)3月、長住は
>上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉
>されて失脚し、替わって富山城主となった
>のが佐々成政である。富山城に拠点を構えた
>成政は富山城の大規模な改修を行った




>本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々
>成政は1585年(天正13年)8月、秀吉
>自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し
>(富山の役)、富山城は破却された
>越中一国が前田家に与えられると、前田
>利長が大改修を行い金沢城から移り住み




>隠居城としたが1609年(慶長14年)に
>建物の主要部をことごとく焼失したため、
>高岡城を築いて移り、富山城には家臣の
>津田義忠が城代として入った。1639年
>(寛永16年)、加賀藩第三代藩主前田
>利常が次男の利次に10万石を与えて分家
>させ、富山藩が成立した




>1661年(万治4年)、幕府の許しを得て
>富山城を本格的に修復し、また城下町を
>整え、以後富山前田氏13代の居城として
>明治維新を迎えるまでの基礎となった。




>1858年4月9日(安政5年2月26日)、飛越
>地震が発生した。富山城も被災し、本丸や
>二の丸、三の丸が破損したほか石垣が崩れる
>など大きな被害を出した

>1871年(明治4年)廃藩置県により廃城と
>なり、翌年建築物は払い下げられた。




>1954年(昭和29年)4月11日より富山城
>跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催
>され、鉄筋コンクリート構造による模擬
>天守が記念に建てられることとなり、
>1953年(昭和28年)7月に着工




>翌1954年(昭和29年)4月3日に完成し、
>通称「富山城」と呼ばれることになった。
>この模擬天守は同年11月17日より富山市
>郷土博物館として運営が始まった。2003年
>(平成15年)6月より、富山市郷土博物館
>(富山城)の耐震補強工事に着手、




>2005年(平成17年)11月3日に、展示内容も
>見直しリニューアルオープンした。2004年
>(平成16年)「地域の景観の核」との評価に
>より富山市郷土博物館(富山城)が、国の
>登録有形文化財(建造物)に登録された




との事で富山城址公園には、様々な
石碑なども建てられていた。ここでは
フリーでの見学時間が20分程しかなく
速足でぐるっと見て回るだけだった
せめて30分はくれないと、門とかも
遠目で見ただけだったし




こちらは砺波出身の実業家である佐藤家が
戦後に建てた佐藤記念美術館で、茶道具類
古陶磁、日本画、墨蹟など千点以上に及ぶ
収蔵品の殆どが佐藤家から寄贈され、今は
富山市が先ほどの富山市郷土博物館と共に
運営にあたっている




そんな感じで、一番最初の富山城址では桜も
良い具合で、市民の方ものんびりとお散歩を
されていた。次は令和で盛り上がる万葉集に
ゆかりの高岡市の高岡城へと。令和に続く~




          平成31年4月5日に富山県で撮影

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最終更新日  2019年04月27日 17時39分30秒
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2019年04月23日
カテゴリ:旅のいろいろ


​さてさて4月のあたまに、娘と出かける
花見旅で桜の開花具合が心配だと言ってた
4月5日&6日の旅日記をスタートさせ
ます。この旅行では名古屋駅に午前7時
チョイには集合だというので




集合時間までに、名古屋駅に着くには
5時台の始発に乗る必要があり、その
為には、家を5時出発だなんて辛すぎ
って事で、娘が仕事が終わった夕刻に
名古屋に出て、駅前のビジネスホテルに
安く前泊をするという事で




ホテルにチェックインをしてから、夕食を
食べに出かけた先は、ユニモール地下街で
ビールと餃子とおつまみのセットで千円と
いうのを、私と娘でそれぞれ注文をしたが
私のビールは、殆ど娘が飲みました




ちょっと足りないなぁ~と、ラーメンを
1杯頼んで二人で半分こ。お腹も一杯に
なったので、そろそろホテルへGO




名古屋駅付近にも新しいホテルが出来て
いますが、ツイン(二人価格)で9千円
以下に設定したので、古めビジネスしか
検索で出なかった中で、朝食にはパンと
飲み物付きで、二人で8千円程で普通に
宿泊できました




同じように、初日の仕事に間に合う為には
5時台の始発なのはキツイからと、息子が
岡崎の出張に前泊をしてるが、出張費とか
出ない個人の宿泊になるんで、ポイントも
貰えるし私がネットサイトで予約を取って
いる




狭い部屋で素泊まりの4300円と、広くて
快適な朝食付き6680円の二つでどちらが
いいかと息子に聞くと、6680円と、躊躇
なく答える息子だ。私なら安い方だろうなぁ~
さてさて自分の旅行の話に戻すと、午前7時
チェックアウトをして、無事に集合場所へと
向かうと




添乗員さんがリストにチェックをしてから
「お昼ご飯を買えないので、ここで食べる
ものを買ってきてください♪」 安い旅行
ではお昼頃にフリータイムを作って、各自
食事をとる事が多いけど、そうゆう時間も
ないのか。ホームにはJRのワイドビュー
しなのと、ひだ




今回参加したのは、1泊2日の団体旅行で
基本的にはバス旅行なんだけど、途中まで
JRを利用するタイプで、今回は初めての
ワイドビューひだ。車ではよく通る道だが
今回は高山線でというのが、物珍しくって
電車から見る風景はどんなかな?




高山線は、まずは岐阜へ向かいますが
岐阜駅でスイッチバックを行って方向
転換をするので、座席は後ろを向いて
セットされてます。車窓からは金華山に
そびえる岐阜城が遠くに見えた




反対側に座ったので、写真は撮れなかった
けど途中で犬山城も見えました。ちゃんと
右側に見えますとか車内アナウンスして
いましたよ。そして、いよいよ七宗町に
入って飛水峡のゴツゴツした岩場が見えた
ウィキペディアによれば




>飛水峡を含めた飛騨川流域一帯は、飛騨
>木曽川国定公園区域の河川公園である。なお、
>飛水峡のうち、JR高山本線上麻生駅の東
>約600mの飛騨川に架かる「上麻生橋」から
>上流約2kmの間の峡谷部分は、甌穴(ポット
>ホール)が河床の岩盤の上に数多く見られる
>ことから




>「飛水峡の甌穴群」(「ロックガーデン」とも
>称される)として、国指定の天然記念物となって
>いる。初夏に飛水峡の岩肌に花咲く岩躑躅
>(イワツツジ)も見所。この付近一帯の地質帯は、
>「美濃帯・上麻生ユニット」に属し、採集された
>チャートの礫から中生代の三畳紀からジュラ紀の
>放散虫化石が発見されている




国の天然記念物、日本の地質百選だそうだ。
ここも車でよく通っているので、お馴染みの
光景だが電車からだと、また違った感じだし




偶然、なんかカッコイイ写真が撮れた




どちらも窓際に座りたいので、娘とは30分
くらいで交互に交代をした。帰りの方はもう
暗くなってたので、娘がずっと窓際だ。圧迫
感がないので通路際の方が好き




同じワイドビューのしなのと、ひだは何が
違うのか。しなのは制御付き自然振り子式
車両の383系電車が使用されているのだが
高山線は電化されてないので、ひだの方は
JR東海のキハ85系気動車を使用している




1989年の通商産業省グッドデザイン商品
(日本産業デザイン振興会グッドデザイン賞)
1990年のブルーリボン賞は次点となった
通路より20センチ程高い位置に、座席が
設置され、窓の縦寸法も95cmに拡大して
眺望をよくしているそうだ




普通車の座席の前後間隔(シートピッチ)も
キハ80系の91cmから100cmに拡大して
いるので、足元も広々。居心地の良い列車で
ひだは下呂を抜け、どんどん北へ




臥竜桜は、この時点でまだまだつぼみで
先週あたりに綺麗に咲いていたようです
一度、桜の時期に出かけた事があります




名古屋駅で乗車をしてから、2時間以上
かかって午前10時頃に終点の高山駅に
到着しました。うちから下呂経由で下道を
普通に車でくるよりも、時間がかかった。
しかも前泊までしてるし




富山までそのまま行けたらいいのに、次の
ひだなら富山まで行く事が出来たけど、それ
だと遅くなってしまう。それ以前に名古屋
から高山までワイドビューを使って、そこ
から、濃飛バスをチャーターする事が何か
しらメリットがあるんだろう




さて、ここからは濃飛バスに乗車をして
いよいよ本格的に出発だぁ~。なんかもう
旅行しちゃった感もあって、何をやって
いるんだろうね。ホント。ともかく岐阜県
(東の端っこ)にとって、愛知県発着での
旅行は、それだけでハードルが高い




高山から見た乗鞍岳は、北アルプスの南部に
あり、北は「安房山」から南の主峰「剣ヶ峰
(3026m)」の23峰の総称だ。およそ
128万年前程前から活動をしている火山で
火山としては富士山、御嶽山に次ぐ日本で
3番目の高さがある




バスの方は、高山から反対側の西へと向かい
東海北陸道で富山に入るようだ。この道路は
前に、家から下呂経由で2時間で車で来て
そこから白川郷に足を延ばした時に利用を
した事がある




富山に出かけた事は1度だけあって、その
時はまだ娘が松本にいたので、前日に旦那と
娘のアパートに泊まって、松本から白馬、
糸魚川に出て、そこからは日本海に沿って
魚津に出かけた




富山からの帰りは飛騨神岡、奥飛騨温泉の
安房トンネルを通り松本に戻ったら、すぐ
帰ってこれたので、松本から富山って近い
もんだなぁ~と驚いたものだ。今回は高速
利用と言う事で、新たな富山ルート開拓だ




おとなり金沢には、名古屋から高速バスを
使った事があり、名神から北陸道を使った
ものだった。そんなんでお隣の県でも
富山県は山深い飛騨を挟んでいるので
地理的にも結構、遠い行く機会も少ない
地域である




途中で1度だけ、トイレ休憩を行って
名古屋駅で昼ごはんを買い損ねた人は
そこの併設コンビニで調達をして下さい
という話だった。バス2台なのでレジ
にはツアー客の大行列




そして山深い飛騨から抜けて、何やら
風光明媚なところにやってきましたよ
ここは砺波平野。昭和46年の歌会始で

はてもなき砺波のひろの杉むらに
      とりかこまるる家々の見ゆ




との昭和天皇の御歌が披露された。これは
前年度の富山県植樹祭に臨席をされ、砺波
平野の散居村において、カイニョ(屋敷林)に
囲まれた家々に感動され歌われたそうである
散居村は、ウィキペディアによると




>広大な耕地の中に民家(孤立荘宅)が散ら
>ばって点在する集落形態。一般的には散村
>(さんそん)と呼ばれる。集村と対比して
>語られることが多く、一般には集村が普遍
>的で散村は比較的少ないと考えられているが、
>実際には世界的に広く見られる集落形態で
>ある。




砺波平野の散居村
>この景観が成立したのは、16世紀末から17
>世紀にかけてであると考えられている。砺波
>平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば
>氾濫したため、この地域に住みついた人々は
>平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで
>家屋を建て、周囲を水田とした





随分と北上しました。もう長野県まで
すぐ近くと言う感じ。もう昼も過ぎて
やっと一番最初の観光先に到着しそう
です。その様子は次回で・・・




さてさて旅行日記の構成上、初日の
観光を全部すっとばし、先ずはこの
旅行の宿泊先である山中温泉の温泉
ホテルについて紹介します。名前の
通り、山中温泉は山の中でした
(↑次の朝の写真)




子供が小さな頃に、うちは泊りで北陸
方面に出かけていたので、片山津とか
粟津温泉は利用した事があるが、ここ
山中温泉はまだなかったので、それも
楽しみの一つだった




ここも、かつては社員旅行の団体さんが
沢山やってきてたんだろうなぁ。まるで
クラブみたいなシャンデリアは、大浴場の
だだっ広い脱衣所にもあった。更にそこに
電動の岩盤浴の機械が物珍しくて、利用
してみた




初期のウォシュレットがあったりと、建て
られた頃にはお金をかけ、最新の設備を
誇っていたのだろう。泉質はカルシウム・
ナトリウム硫酸塩泉(低張性弱アルカリ性
低温泉)




昼ご飯もないような格安旅行の、団体
料理なので、あまり期待はできないが
高齢者が多いので、量が少なめなのは
かえって良いのかもしれない




アワビの踊り焼きは、しっかり踊って
いたし。冷たい天ぷらを横に並べて
暖かくしてから食べた。まぁ天ぷらが
冷たい宿は、個人でもたまに見かける




しかしお肉のたれが、うちで普段から
食べているのにそっくりな味だったので
完全お残し。娘が私の肉を食べてくれた




しかし次の朝食は、海辺の県であるのか
ひものがよりどりのブッフェで、これは
なかなか、面白い




新鮮そうなひものを焼いて、自分で
選んだとはいえ、やっぱ高齢者向きの
ヘルシーな朝食だった。なかなか観光
豊富、移動時間の多い旅行だったので
山中温泉に着いたのは夜7時半になり




それからの夕食あったし、疲れもあって
朝は散歩より温泉につかったので、もう
行く事はないかもしれないだろう、山中
温泉の温泉街は散歩できずに残念




2日目はランチがありました。こちらは
焼き鯛まぶし丼御膳という事で、越前の
お蕎麦がセットされていた。なんと高山
7時近くのワイドビューひだ利用で、夜
遅くの9時前に、名古屋に到着なのだが
夕食は自分で調達をしなければならない




しかし格安バス旅行によくある、事前に
バスの中で、千円程のお弁当を注文して
夕刻に受け取るというので半数近い人が
お弁当を注文していたが、私らは高山駅
での空き時間にコンビニで調達できたが
初日のお昼といい、コンビニおにぎりな
旅だった。次回から肝心の観光の紹介を




          平成31年4月5日に愛知、岐阜、北陸で撮影

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最終更新日  2019年04月24日 09時07分34秒
コメント(57) | コメントを書く
2019年03月21日
テーマ:海外旅行(5103)
カテゴリ:旅のいろいろ


​2月からここで紹介をしていた​、娘と
1月下旬に出かけた、2泊3日の上海
無錫、蘇州の格安旅行の紹介も遂に
最終の日記となった




一番最後に紹介するのは「新場古鎮」で
上海市街を離れて、上海浦東国際空港に
向かう途中でのフリータイム観光だけど
豫園商城同様に、あまり時間は無かった
ような




駐車場から細い路地を通って、主要な
観光場所まではガイドさんに連れられ
そこで解散し、あとは集合時間までに
駐車場で待つバスに戻るという訳で




折りたたみ傘も用意したが、なんとか
使う事もなく帰国が出来そうだ。こんな
狭い路地で、傘はあまり使いたくないし
カメラで写真を撮るのにも邪魔になる




駐車場へ戻る角のお店をしっかりと
覚え、集合時間まであまりないので
てくてくと歩く。向こう側にも平行
して路地があるようだし




少し歩くとお店屋さんもあり、何だか
賑わったエリアに突入。前を行くのも
同じツアーのご夫婦だ




こんな狭そうな通りでも、新場大街と
いうらしくって、人通りもここだけは
多いように思いました




このようなお店や




こんな食べ物や




こんなのや




こんなのも店頭に売っていました




さて新場古鎮は、上海の郊外にあり
空港にも近い事から、こういった
旅行でも観光先に利用もされるよう
だが、こういった水郷古鎮で有名
なのは




京杭大運河にも近い杭州とか、蘇州
あたりにあるもので、西塘とか鳥鎮
朱家角、周庄など街を巡る水路により
水運で栄えていた往時の姿を、色濃く
残しています




ここ新場は千年ほど前に、塩を生業に
町が発展して、かなり栄えていたそう
である




そして、明や清時代の古い建物なども
残る町並みがある訳だが、こういった
所が結構まるそうだけど再開発という
話もなく、次世代に保存をされていくん
だろうか?




昼間だけの土産物屋ならともかく
実際にこういった古い町の、古い
建物だと最新の電化品に囲まれた
現代生活をおくるのはかなり困難
にも思えもする




家と言うものも人が住んでいないと
傷んでしまうし街も廃れるが、そこで
暮らしてる人たちの暮らしもあると
思うとね・・・




とりあえずエアコンの室外機もある
ようなので結構、快適にリフォーム
しているのかもしれないし




さて今年のベネチア映画祭で最高賞の
金獅子賞だったのは、ROMA/ローマ
だったけど、2007年にはアン・リー
監督のラスト、コーション(色,戒)
であった




その映画でここ新場古鎮でも、ロケが
行われたそうで、この第一楼も映画に
出てきたらしいです。その映画は見た
事はないですが、アン・リー監督の他の
作品は幾つも観ました




グリーン・デスティニーや、ハルクとか
いつか晴れた日に、ブロークバック・
マウンテン、ライフ・オブ・パイ/トラと
漂流した227日と、どれも印象が強いです



ユーチューブにラスト、コーションの
日本語版の予告編があったので、↑に
貼り付けましたが、日本ではR-18指定
だそうです。 ウィキペディアによると




>アイリーン・チャン原作の小説『惘然記』に
>収められた短編小説「色・戒」を映画化。
>第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、金獅子
>賞と金オゼッラ賞(撮影賞)を受賞。第44回
>金馬奨にて最優秀作品賞・最優秀監督賞・
>最優秀主演男優賞(トニー・レオン)を受賞。




>第二次世界大戦中、日本軍による事実上の
>占領下となっていた香港と上海を舞台に、
>日本の傀儡政権である汪兆銘政権の下で、
>抗日組織の弾圧を任務とする特務機関員の
>暗殺計画をめぐって、暗殺を目論む女スパイ
>(工作員)と、暗殺対象となった特務機関員
>との間に芽生えた愛情のゆくえを描いた物語。




人気男優のトニー・レオンと、オーディション
で約1万人の中から選ばれたタン・ウェイ出演
日本国内でも高い評価を受けた映画のようだ




この登場する女スパイには実際のモデルが
いるそうで、鄭蘋茹(テン・ピンルー)と
いう。女スパイと言うと川島芳子が有名
なのだが、李香蘭といい日中のはざまで
激動の時代に翻弄された女性が他にもいた
とは




ウィキペディアによると・・・
>1918年(民国7年)、浙江省蘭渓市に
>生まれた。父・鄭越原は孫文を慕って
>中国同盟会に参加した事があり、母は
>日本人だったこともあって、早くから
>日本に対して、親近感を抱いていた。




>1932年~1934年にかけて上海の明光
>中学(民光中学とする説も)高等部に
>在籍。後に自身の運命を決定づける
>丁黙邨は同校の代表理事であった時期が
>あり、このときに二人は出会っていた
>可能性がある




>美貌でしなやかな肢体を持っていたと
>言われ、上海のグラビア雑誌『良友画報』の
>表紙を飾った事もあった。やがて自身の
>容貌を活かして、抗日運動に身を投じ、
>その過程で近衛文隆(近衛文麿元首相の
>長男)と知り合った




>しかし、1939年6月4日に近衛暗殺未遂
>事件があり、危険を察知した大日本帝国
>陸軍幹部は近衛を日本に送還(その後、
>満州へ召集令状が出された)し、二人の
>関係は終わった。その後、重慶国民政府の
>特務機関・中央統計局から重大な命令が
>下る。




>それは汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェス
>フィールド76号)の指導者となっていた
>丁黙邨を暗殺せよというものであった。
>鄭は丁に近づき、1939年12月21日、丁の
>暗殺計画を実行するも失敗に終わった。
>そして特工総部に出頭し、そこで構成員の
>林之江らに捕らえられ、監禁された。




>1940年2月の春節前林らによって上海郊外の
>滬西区中山路に連行され銃殺された。享年22。
>没後、中央統計局の後身である中華民国法務部
>調査局より殉職烈士に認定され、また彼女の
>悲劇と数々のロマンスは、多くの小説映画の
>モデルとなっている



最後の日。中国人官吏から「今日は映画に
連れて行くから支度しなさい」と言われた
鄭蘋茹は、金色の靴を履きおしゃれをして
車に乗り込んだのだが、上海から郊外へと
車が向かうと、自分の身に何が起こるのか
気がついて泣き叫んだ




しかし二人の男に両脇を抱えられ引きずり
出され、事前に掘ってあった真四角の壕の
前に座らされ死刑宣告文が読み上げられた
彼女は中国語で「顔を撃つのだけは止めて」と
訴えたが、宣告文が読み終わると後頭部を
撃たれたそうである




鄭蘋如、川島芳子、李香蘭。立場こそ違うと
しても時代に翻弄され、その難しい立場の中で
必死に生き抜こうとしていたのかもしれない

日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇  前編

日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 後編


美貌のスパイ鄭蘋如 ふたつの祖国に引き裂 (単行本・ムック) / 柳沢 隆行 著

美貌の女スパイ、鄭蘋如が闊歩した租界
時代の上海の事を「老上海」と呼ぶそう
である




まさに様々な姿、そして今は遠き時代の
面影を垣間見せてくれた上海は、かつて
魔都と呼ばれていたとしても、不思議は
ないだろう。この古鎮でも、かわいい
わんこがうろうろしていた




水路に浮かぶ小舟に乗る為の階段が
今も残る




通路にあったポストは緑色




一期一会とあるところには、なにやら
いっぱい下がっていた




水路際の屋根のある通路を、ぐんぐん
歩いてきた。もはやここまでやってくる
観光客も誰もいない




そろそろ戻らないとまずいかな。でも
ここまでやってきて良かった。なんか
趣のある橋だし。こうして1月下旬に
娘と出かけた2泊3日上海、無錫、蘇州の
旅は終わった




ここからは近況。昨年秋の頃から
姑が頬に出来たできものが治りが
悪いと、市内の皮膚科の病院へと
行くと、総合病院へ案内状を貰い
連れて行ったら悪性腫瘍(癌では
ない)だからすぐに、手術という
事で




部分麻酔のイボを取るものなので
事前に、心電図などの検査が無く
先週、手術をして貰って、術後に
点滴などもあり、3月は姑の病院
通いで何度も病院に出かけている
経過もよく、次の予約は4月中旬
でいいそうだ




昨日は春のような陽気の中、車も
窓を開けると花粉も飛んできそう
なので、冷房を入れ病院に向かって
いると、姑が唐突に恵那のお母さん
(私の母親)のお墓参りに連れて
行って欲しいと言い出した




何でも私の母親が夢の中に出てきた
ので、お墓参りもずっとしていない
事が気になったそうで、病院の後に
途中で、お花とペットボトルの水と
お線香と、ライターを買っていって
きた




NHKの朝ドラでも早くに亡くなった
主人公の姉が、いつも家族の夢の中に
出てくるが、私も長野五輪でジャンプ
優勝に感動した2月下旬、春のように
うららかな日に亡くなった母親の夢を
何度か見た事があるが




つい10日ほど前にも、母親の夢を
見たばかりだった。夢の中では母親と
いつも旅行をしている。旅の番組が
好きで70近くになって膝を悪くし
寝たきりになると、ベッド脇にある
テレビでいい旅夢気分と、旅サラダを
いつも見ていた




そんな母親とは実際には、ヨーロッパ周遊
九州、山陰等10回程しか旅行してないが
桜の好きな母親だったので、二人でお花見
旅行に出かけた奈良の吉野山と、京都での
哲学の道は良い思い出になっている




そんな母親だが亡くなる少し前には
妄想が始まり、家の2階に男と女の
スパイが潜んでいるから、危ないし
子供は連れてくるなと、真剣な顔で
話していた。中国の旅はこれでお終い!




               平成31年1月28日に上海で撮影

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最終更新日  2019年03月25日 14時58分03秒
コメント(60) | コメントを書く
2019年03月18日
テーマ:海外旅行(5103)
カテゴリ:旅のいろいろ


​紹介が前後してしまったが、1月下旬に
娘と出かけた上海、無錫、蘇州の旅での
最終日の上海で、午前中に出かけたのは
既に、地下鉄で夜景を見に出かけた外灘
だった。今にも雨が降りそうな悪天候で
空はどんより




一番右のビルが中東に続いて、世界で
2番目に高い632メートルの上海中心で
ランキング10位以内に、中国の高層
ビルが4つ入っており、蘇州には高さ
729メートルの超高層ビルが建設中だ




さらに上を行くのがサウジアラビアで
建設中のジッダタワーで、完成すれば
1000メートルを超えるらしい。実は
日本でも、かつては超高層ビルの話も
出ていたが、バブル崩壊でなくなった
みたいだ




現在日本一の300メートルの大阪あべの
ハルカスを超えるビル2棟が、東京都内に
建設予定なんだとか。特に超高層ビルとか
地震もあるし、羨ましいとか思わないけど
近未来には日本以上に深刻なのが、中国の
超高齢化問題のようだ




中国における60歳以上の人口は2億人を
越しているらしいが、近い将来には5億人に
なり、総人口の35%にも達するそうだ
流行語になっている言葉に「未富先老」と
いうのがあり、豊かにならないうちに先に
高齢化を迎えるという意味だそうだ




あと「未備先老」は、制度が整備されない
うちに先に高齢化を迎えるという意味で
高齢者の医療、年金、介護の分野において
高齢化が先行する日本に学べという意見も
出ているそうだ

中国で「日本に学べ」の声も…加速する少子高齢化




さて上海最終日、外灘から市民がくつろぐ
「古城公園」の中を歩いて、豫園商城に
出かけて、そこでフリータイムとかランチを
食べてから、観光バスに乗りこめる大きな
道路まで、てくてくと歩いて移動




前回紹介をした豫園とか、この周辺一帯は
租界時代には「上海城」と呼ばれた中国人
居住区であり、現在の上海の中で最も中国
的な雰囲気を色濃く残すエリアである




豫園商城が観光客用ならば、こちらの
「上海老街」は、地元の人が買い物を
楽しむごく普通の商店街と言った感じ
なのが良い。




京都の中心部は町の名前ではなく、道の
名前を使って地名にしているので、例えば
縦の河原町通りと、横の四条通りが交差
しているあたりは四条河原町、五条通り
ならば五条河原町といった具合だが




上海の旧市街(浦西)の場合にも、路が
重要で、1862年にイギリス租界当局が
ルールを決めたそうである。南北に走る
道路は中国の省名で、東西に走る道路は
中国の都市名なんだとか




大きな南北の道路では、外灘から西方向へ
「四川路」「江西路」「河南路」「山西路」
「福建路」「浙江路」「雲南路」「西蔵路」
・・・・といった感じで、蘇州川から北が
「○○北路」で、蘇州川から延安路までを
「○○中路」、延安路から南が「○○南路」と
なっているそうだ




で、都市の名の東西の道路は北から「北京路」
「寧波路」「南京路」「九江路」「漢口路」
「福州路」「広東路」といった具合で、やはり
南北の西蔵路を基準として、東が「○○東路」
西を「○○中路、又は○○西路」となっている
らしい




そうそうチャイナドレスだけど、これは
>元々満洲人の遊牧衣装で、同じ遊牧民族の
>モンゴルのデールから強い影響を受けた。
>16世紀、満洲人が漢民族及び中国全土を
>支配した後、漢服の文様や織法を取り付け
>徐々にモンゴルの様式から離れ、満洲人と
>漢民族を融合させた中国式な服装になった




>17世紀、チャイナドレスは清国の属国で
>あるベトナムのアオザイにも大きな影響を
>与えた。19世紀に入ると、清国の弱体化と
>西洋勢力の侵入より、中国色が薄く、西洋の
>様式と融合された今のチャイナドレスが
>生み出した。20世紀、社会主義国の中国
>大陸では厳しく禁止され




>香港と台湾では風俗業界や中華系ヤクザの
>女性仕事服として広まれた。21世紀、中国
>大陸はチャイナドレスの禁止令が消えて、
>多くの中国の政治家夫人や女優が愛用する。
>歴史の短い、満州人の民族服であった
>チャイナドレスは、逆に全中国女性を代表
>する服装になった。ウィキペディアより転載




さてさて横浜の中華街などにもあるが、街中に
ある門を「牌楼(はいろう)」という。↓写真
元の時代に、都であった「大都」(北京)では
居住区の基本単位である「坊」によって区画を
されており、管理の為に街の標識として牌楼が
建てられたそうだ




王城などの門は治安の為に、夜には閉じられて
朝に開かれるものでしたが、常に開かれた門で
ある牌楼は、邪気の王城への侵入を防ぐという
意味も込められているそうで、古来より重んじ
られてきたそうである




「四牌楼路」は、かつて路地裏に屋台が
ひしめく庶民派グルメストリートだった
そうだが規制で、屋台は撤去されてしまい
静かな町に戻ったらしい。そんなグルメ
ストリート時代に行きたかった。ちょい
残念




そんな感じで速足で歩くガイドについて
いきながら、右を見たり、左を見たりと
キョロキョロしながら、近代的なビルの
並ぶ大きな道路に出てきた。そこから
3日間にわたって慣れ親しんだ大型観光
バスに乗り込んで、いよいよ上海とも
お別れの刻が近づいた




車窓には世界有数の摩天楼。重ねて言うが
これはスモッグとかではなくって、単に
お天気が悪くて、今にも雨が降るような
どんより曇り空だから




新しい高層ビル群が作られていく上海
でも、かろうじて前時代を思い起こす
ような古い町並みも残るが、それも
風前の灯火なのか?




初日に空港から上海の街にやってくる
時に通った道を、今度は上海を離れる
反対車線で




中国を思わせるような真っ赤な車の
向こうに先ほどは見上げていた上海
中心(センター)が小さく見えた




黄浦江にかかる「南浦大橋」を渡って




そこからの上海センターも、これも
最後の姿となろう。また上海へ来る
事なんてあるだろうか。それ以前に
台湾や香港にも行きたいし。テレビで
やってたマカオも楽しそう




いやいや、それ以前に東北地方と四国
三県(愛媛は行った)と、鳥取県とで
全国制覇目指さねばならぬのに道遠し
旦那が修学旅行でいってる四国や日光
出張でお馴染みの仙台(東北と認識)は
行きたがらないのだ




東北地方はレンタカーで旦那に運転を
してもらって秘湯巡りとかしたいのに
防虫効果なのか、街路樹の下の方は
どこも白かった




バスの中。今回は後ろの方で。旅も終盤
オプションも、ショッピングも終わって
しまうと、ガイドさん必要最低限のこと
しかしゃべらず、運転手さんと歓談する
程度だったし




実は、上海から空港に向かう途中でも
もう一か所、水郷古鎮(水辺にある古い
町)を観光をしてまして、写真の枚数の
関係で、次回で紹介しますのでお楽しみに




無事に空港について飛行機に乗り込み
夕刻の機内食。日本には時刻通りに
到着し、後はセントレアの回で紹介を
した通り、ホテルで泊まって映画など
見て帰宅しました




お土産は、南京東路で購入したお菓子と




田子坊、南京東路、豫園商城でそれぞれ
購入したフレーバーティーとか、見ても
綺麗でほんのり甘い「八宝茶」は、値段も
とってもお手頃だったし、もうちょっと
買ってくればよかったかな↓


  

          平成31年1月28日に上海で撮影

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最終更新日  2019年03月18日 10時26分01秒
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2019年03月15日
テーマ:海外旅行(5103)
カテゴリ:旅のいろいろ


​やはり出かける時期によっては、旅先で
見る事が出来るものが違っており、1月
下旬の上海は、来るべく豚年に備えての
春節風景があちこちで見かけられ、普段
よりも、たぶん華やいだ雰囲気だった




前にも書いたが、日本の十二支は今年は
猪だけど、本家の中国は「豚年」である
娘と出かけた上海、無錫、蘇州の旅2泊
3日。最終日は賑やかな「豫園商城」で
フリータイムだ




その日の朝はホテルを出て、しょっぱな
格安旅行では、お決まりのショッピング
三連発。シルクのお布団屋さん、場所を
移しての、豫園商城のすぐ近くのビルに
あるラテックスの枕に、中国健康茶




ランチもそのビル内のレストランなので
その食事タイムまでは、豫園商城での
フリータイムは1時間弱はあったような
気もするが・・・色んなお土産屋さんも
あって、沢山の人でにぎわっていた




お馴染みのあのお店や、このお店もあり
いわゆる東京の浅草みたいなものだろう
そんな繁華街の真横には、明代の庭園の
「豫園」があるのだが、娘が一緒なので
中に入る事は断念をした




ウィキペディアによれば
>「豫」は愉を示し、すなわち「楽しい園」と
>いう意。面積は約2万m2。もとは四川布政使
>(四川省長にあたる)の役人であった潘允端が
>刑部尚書だった父の潘恩のために贈った庭園で
>1559年(嘉靖38年)から1577年(万暦5年)の
>18年の歳月を費やし造営された。完成した時
>には父は没していたといわれる




>清代初頭、潘氏が衰えると荒廃するが、1760年
>(乾隆25年)、上海の有力者たちにより再建
>され豫園は南に隣接する上海城隍廟の廟園と
>なり「西園」と改称された。当時は現在の
>2倍の広さがあった。(中略)1956年、西園の
>約半分を庭園として改修整備し現在の豫園と
>なる。残りの部分が豫園商城となる




>1961年に一般開放され、1982年は国務院に
>より全国重点文物保護単位となる。龍は皇帝
>以外、使ってはいけないとされる生き物で
>あったが、皇帝が使用する龍は5本指に対し
>龍壁の龍の指は三本指であり格下の龍とされる




>装飾や様式は伝統的(中華-上海的)であり
>つつ周辺は中華的な高層建築物が並んでおり
>観光地として豫園商城と呼ばれている。
>お土産物店や飲食店が軒を連ね、小籠包の
>本家を名乗る南翔饅頭店などがある




もしも私だけなら、絶対に一目散に豫園に
入場(有料)して、中で写真で撮りまくって
いたけど、そんな庭園には興味がない上に
蘇州で似たようなのを見たじゃないという
だろう娘に気兼ねもあって




そんな娘と同伴なので、行きたいという
気持ちを我慢して、豫園商城をうろうろ
何せかなりな繁華街だし、スマホが使え
ないので私だけが豫園、娘だけで豫園小城
といった別行動を取ると




娘がちゃんとランチの会場に戻れるのか
不安もあったのだ。普段からスマホとか
カーナビに頼りきった娘は、方向音痴の
ような気もするような




スマホも設定とかしたら海外で使えるかも
しれないけど、もしも高額請求でもしたら
なんて思うと電源も入れるつもりもないし
(国内でのみ利用)クレジットカードも
怖いんで、必要分と思われるだけ現地通貨に
両替しての明朗会計




ここでもスローガンが、高々と掲示を
されていた。そしてここでも道行く人が
真っ赤なかばんや、上着があちこちで
あと、ウサギのたれ耳をつけた小さな
女の子たちがいたが、あれは韓国で流行
したもので、日本ではティーンの子が
やっているらしい




でも中国のように小さな子供がつけて
いた方が嫌味はない。片隅で伝統的な
楽器を奏でる人も




既にガイドブックで行きたいなと思う
ようなお店もあって、そこで目当ての
土産も購入できた。ここではないが↑




小籠包の発祥は上海郊外にある南翔という
街で、「日華軒」の店主黄明賢が清代同治
年間に、古猗園の石船(水上建築)で売り
出した「南翔大肉饅頭」だそうである




あちこちで美味しそうな香りが漂い
湯気がたちこめてもいたが、これから
ランチなので、買い食いも出来ない
やっぱ上海市内だけであれば、個人で
動いた方が便利かもしれない




そんな豫園商城で、事前にガイドブックを
見て、ここには私も行きたいと思っていた
のが「九曲橋」である。ウィキペディアに
よれば・・・




>九曲橋は、太鼓橋と共に中国庭園によく
>みられる人が通る橋で、上から見ると橋が
>ギザギザに曲がっていて、歩く時に四方が
>よく見えるようになっているもの。多くは
>石かコンクリートでできていて、欄干が
>きれいに装飾されている。




>曲がる角度は直角のこともあるし
>他の角度もあり、また稀に曲線の
>場合もある特に宋代の庭園に顕著で
>あるといわれる
脇には南翔饅頭店もあるが、食べに
入る暇もない




これらの春節の飾りが夜には明かりが
入って、とても華やからしい。昨夜は
こっちに来てもよかったかな




ともかく近代都市的な南京東路とはまた
違った、楽しい上海らしい繁華街だった
時間はあっという間に過ぎてしまって




そろそろランチの時間なので、先ほどのビルに
向かうが、この足場(?)がすごい建物を左に
折れて・・・すたすたと娘が入った平凡なビル
私はそのビルだと忘れてたし。迷子になるのは
私の方だったか。娘と一緒に行動して
良かった




この旅最後の食事は、飲茶だか点心みたいな
軽めのものだった。それぞれ一人1個づつ
人数分あったが、残ったのは娘に食べろと
他の皆さんがすすめてくれた




写真にはないが、小籠包もあった




「上海炒麺(やきそば)」は、うどんよりも
細く、そばよりは太い麺を炒め、中国醤油で
味付けしたものである




最終日の上海の午前中には構成上、ここでは
後から紹介しますが、その他の観光先もあって
そこから、この豫園商城までは歩いて移動を
したのですが




こういった、ごく普通の路地のような所も
歩きまして・・・。こんな素顔の街の姿が
ザ・観光地より好きです




こういった門があちこちにあったりします
なんでも、どの辺だったか覚えてませんが
再開発で立ち退きになっている区域とかも
あるようです。どんどん古い町並みが消え
ピカピカの高層ビルが建てられていくんで
しょうね




なんでも米中貿易摩擦の余波で、段ボールが
不足する懸念が広がって、段ボールの原料の
古紙の調達先を、米国から日本に変えての
「爆買い」で、日本での古紙流通量が減って
品不足が起きたらしい




そうそう紙と言えば、トイレットペーパーは
中国のは品質が悪くって、トイレに流すと
詰まってしまうので、ゴミ箱に捨てないと
いけないので注意が必要だ。上海市街はまず
問題がないが、無錫や蘇州など地方に行く
場合、トイレットペーパーが無いトイレも
多く、携帯用のものを日本から持参をしたい




お国変われば、いつもの常識が通じない
事もあるので要注意。中国でキャッシュ
レス決済が急激に広がったのは、偽札が
多いからだそうだが、その逆に日本では
高度な印刷技術によって、世界一偽札が
少ないそうだ




まもなく実施される増税に合わせて、日本
でも、中小店舗においてキャッシュレス
決済をするとポイント還元がされるという
これは訪日外国人観光客の利便性や、貨幣
製造のコストダウン、盗難や麻薬、密売など
犯罪防止。更には脱税防止につながるそうだ




現金を狙った昨今のアポ電やオレオレ詐欺や
盗難にもいいかもしれないけども、慣れない
キャッシュレスを使った犯罪も増えそうな
気もする。コンビニでアマゾンギフト券を
買わせたりとか既に行われているようだし




それにしても今週の真冬並みの冷え込みには
驚いた。うちのあたりも雪で真っ白になって
昨日は早起きした旦那が、かえたばかりなの
タイヤを冬用に戻して、会社に出かけた
といった訳で上海の旅行最終日、まだ続く




          平成31年1月28日に上海で撮影
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最終更新日  2019年03月15日 20時56分53秒
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