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カテゴリ:タコ生徒・学生期
1969年は、私の人生のその後を左右するようなことが多く起こった。1月の東大安田講堂攻防、7月にアポロ11号月面着陸。そして、10月。
10月28日からの中間テストが延期になった。私は、都立高校の2年生だった。その月、中国地方への修学旅行から帰り、テストの準備をしていたが、いろいろと不穏なことが起こりつつあった。だが、テストが延期になったことには妙に嬉しくなったことを覚えている。 1969年は年初から日本中が大揺れに揺れていた。翌年に控えた日米安保条約の延長を阻止しようとして大学生を中心とした学生運動が頂点に達していた。日本中いたる所で警察と衝突していた。そして、全国の高校も大きく巻き込まれていった。 「昨夜、生徒の何人かが学校内に入りバリケード封鎖をしようとしました。」校庭に全学年の学生が集められて、学校側からテスト中止の説明がなされた。 「私たち、教職員が泊まりこんで封鎖を阻止しました。そして、本日からのテストを中止して全学年で現在の学校教育の問題などにつき討論をすることにしました。」これが、それから延々60日に渡って続く全学討論の初日となった。今の若い方々には想像もつかないことだろうが、来る日も来る日も授業がなく、クラス討論、学年討論、全学連絡会議などが行われた。 隣の同じ学校群の立川高校ではバリケード封鎖が行われていた。そんなこともあり、教職員が毎日泊まりこんでいたようだ。学校側も、一定の理解を示して学生の自由討論の場を与えた形になった。 現実には、論じ合うことが学校の現場の小さなことから、国の政治のあり方などまで、あまりに多くのことがあり過ぎて壁にぶち当たっていってしまった。学校側はそれを見越していたのかも知れない。 生徒心得の廃止、学生服の自由化、3年生の授業科目の選択制などいくつかの点が改善された。しかし、受験制度の改革とか大学教育のあり方など、学校を超えたものについては要望をまとめた程度で終わってしまった。大きな挫折感が襲ってきた。 こうして、年末には尻つぼみになり紛争は収束していった。大学受験を控えた3年生の中には、討論に参加せずに予備校に通っていた人も多くいたよう。翌年の1月から、正常授業が始まった。しかし、確実に私たちの中で変化が起こっていた。そして、1970年、日米安保条約の期限切れ延長の年を迎えた。 下の箱をポチッとクリックお願いいたします お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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