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タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

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2012年02月17日
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カテゴリ:移住模索期
「日本語教師じゃ、男性は食べていけないわね。」
広尾の日本語学校で教え始めたある日、近くの弁当屋で買った温かい弁当を食べていたとき先輩の長野先生がぽろっと言った。

「そうですね、まだ日本語教師って仕事、認知されていませんね特に男の仕事としては。」
1985年の1月のことだった。私は、その半年後にはオーストラリア移住を目指して旅にでることは、まだこの学校では誰にも話していなかった。入ったばかりだったこともある。

マンションを改造して小さな日本語学校にした所で、本当に経営も厳しいようだった。私はこの学校で毎日クラスを受け持つことになった。各教室が小さいので、一番大きなクラスでも生徒は6人までだった。2人というクラスもあった。そんな訳で、生徒とはすぐに親しくなれた。

「そう、オーストラリアに移住するの、それはいいわね。おめでとう。」
オーストラリア行きが正式に決まった時、先輩の長野先生に伝えたら本当に心から祝福してくれた。でも、その時は、まだ永住できるかどうかもまったく分からない、観光ビザでの渡豪だった。体中で不安という服を大きく着て歩いているような時だったが、不思議と心の中からは「必ず移住できる」という叫びが聞こえてきていた。根拠も裏打ちもまったくないのに、不思議な叫びであった。

「タコ先生、先生はオーストラリアで必ずいい先生になりますよ。」
アメリカのニューヨークから来ていたジョンという好青年がそう言って励ましてくれた。彼は、モルモン教の信者を彷彿とさせるようなクリーンカットの青年で、よく3、4人で飲みに行ったりしていた内の1人だった。でも、こういう一言が励みになった。

この学校で半年近く程教え、日本語教師としてやっていくある程度の自信が少しできたのは本当に大きなことだった。

しかし、実際には日本語教師として永住権を取ることは、当時の私にとっては不可能に近いことが豪州入りしてまもなく分かった。お先真っ暗になってしまったが、あの不思議な心の叫びだけは相変わらず聞こえ続けていた。


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Last updated  2012年02月17日 07時11分36秒
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