|
カテゴリ:戦国時代・戦国武将
1582年6月2日 本能寺の変
天下統一を目指していた織田信長、嫡男信忠が自害をして果てた このことで織田政権の中心人物が失われ、6月13日の山崎の戦いで 羽柴秀吉が明智光秀を破り、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ったことで 豊臣政権を構築していく大きなターニングポイントとなった出来事 最大のテーマは、明智光秀が謀反をした理由である 以前のブログで明智光秀について書きましたが、 「瓦礫が如く沈んでいた私を信長公が召し出され、多くの軍勢を預けてくださった 一族家臣は子孫に至るまで、信長公への感謝を忘れてはいけない」 と1581年6月に 家中軍法の結びに書いています(1年前ですね) 1年間の間に何かがあった ということが わかります 天才を殺す凡人 のブログで書きましたが 織田信長は 天才タイプの人間でかつ 秀才でもあった 「エリートスーパーマン」であり 高い創造性と論理的思考のカリスマ的存在で部下を威圧していたと想像出来ます 一方の明智光秀は秀才タイプの人間で勝つ 凡人でもあった 「最強の実行者」であり 要領が良く 人の気持ち、痛みもわかる人だったのではと思います 織田信長は うつけ と呼ばれていましたが 彼が天才過ぎるので 誰も理解出来なかった と解釈した方が正しいと思います 前例が無いことを嫌がる官僚タイプでは無かったということですかね? 一方、明智光秀は典型的な官僚タイプだったと思います 忠実に実行していく秀才、再現性を重視していくタイプ ロジカルシンキングに長け 天才信長が創造していったものを 確実に堅実に実行していき拡大していく 信長に対して強い憧れがありながらも、 理解・共感出来ずに苦しみ 葛藤していったのではと推測出来ます 信長に対する憧れと、越えられない壁 ライバルである秀吉の台頭 林・佐久間の古参の追放など焦りも重なったのもあるかも知れません お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月04日 07時00分09秒
コメント(0) | コメントを書く
[戦国時代・戦国武将] カテゴリの最新記事
|