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何を思ったのか35年ぶりに鹿児島に行くことにしたのです。
何故突然鹿児島かと問われてもこれと言って答えは見つかりませんが、ただ篤姫に会いたいということだけは間違いがないようです。 1泊2日という短期間なのでじっくり観光パンフレットと睨めっこをしながら効率よく回ることとしました。 35年前は司馬遼太郎の足跡を訪ねる青春群像の旅でしたが、今回は篤姫ブームに乗った観光気分がいっぱいの歴史を訪ねる旅となりました。 霧雨に霞む鹿児島空港に降り立ち、予約していたレンタカーの受付を済ませ案内された車はスカイブルーの日産マーチです。 チョット派手かなと思いながら車の回りのキズの確認をしていましたら、隣りには真っ赤なマーチに若い二人連れの女の子達が車に乗り込み颯爽と走って行きました。 カーナビの使い方を教えていただいたのですが、説明をしてくれた女性が全て標準語なのです。ご当地弁を期待していたのにまったく当てが外れてしまいました。 いざ最初の目的地「仙巌園」へとカーナビを合わせ車を走らせたらいきなり分かれ道、高速を使う予定が一般道に入ってしまいそのまま走らせてしまいました。 最初からこのハプニング、これからの旅が思いやられます。 しかし 結果として海岸通を走ることになりましたので、普段海を見ることのない埼玉県人には気持ちのよいドライブとなりました。 ただ霧が濃く市内に入ってからも、期待していた桜島を望むことはできません。 雨の中の「仙巌園」へと滑り込み、持って行った折り畳み傘をひろげ庭園へと向かいました。 「仙巌園」は島津氏の別邸跡地で鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園として有名です。 35年前、22歳の私はこの庭園から桜島を望み遠い幕末に想いを馳せたものでした。 現在の私は、あちこちでNHKの撮影現場が残されており、ここで篤姫が、肝付尚五郎がとミーハー気分で庭園を回っています。 ただ篤姫と尚五郎との接点を示す資料は無いそうなのです・・・・・宮尾登美子さんの本にも尚五郎は登場しておりません。 途中に茶屋があり「ジャンボ餅」という看板を見つけました。私は大きな餅をイメージしたのですが、妻が言うには二本脇差しのことで団子に竹串を二本指し「両棒餅」つまり鹿児島弁でジャンボと訛るのだそうです。 ちなみに妻は熊本県産です。食感はみたらし団子と同じでした。 また薩摩切子の売店があり紅色をはじめ各種の色ガラスにカット加工を施したクリスタルガラスが展示されて販売されています。 この中にUSBメモリーに薩摩切子を鮮やかに施したものが、何と10万円也の金額がついておりました。誰が使うのでしょうか・・・・薩摩はこの切子で随分と財を成したようです。 隣りには「尚古集成館」があり島津斉彬が植民地化を進める西欧諸国に対抗するために近代化事業(集成館事業)を起こし工業生産拠点作り上げた重要文化財の数々を博物館として展示しています。 さて次の予定地、カーナビを「城山」へとあわせて車を走らせました。 城山は西南戦争最後の激戦地です。西郷さんが5日ほど隠れていた洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く点在しているところです。 狭い山道をくるくる走り頂上に着いたかなと思ったら下りとなってしまいました。「しまった」と戻ろうとしましたが道が狭くUターンができません。 とうとう町並みにまた出てしまいました。とても隣の妻の顔を見ることはできません。 再度登ろうと走っておりましたら「黎明館」が見えてきました。 ここは本日3番目に向かう予定の目的地なのです。これ幸いと中に入ることにしました。 黎明館の敷地は,もとの鹿児島(鶴丸)城本丸跡地です。 「城をもって城とせず、人をもって城となす」と、天守閣のない屋形造りの城だったそうです。 「黎明館」は鹿児島県歴史資料センターとして昭和58年に開館したもので35年前にはなかったのです。 この旅一番の目的地なのです。 総合博物館として,鹿児島の歴史,考古,民俗,美術・工芸を紹介しています。 東京国立博物館にも引けをとらないほどの立派な建物でした。 私が真っ先に行きたかったところは鹿児島の歴史コーナーです。特に幕末時代にはたっぷりと時間を割いて観て回りました。 なぜなら私には何故薩長が突然に南朝正統論を唱えるのか理解しがたいのです。 「歴史に学ぶ」奈良本辰也氏の本によりますと孝明天皇は岩倉具視による毒殺説を取っています。 「明治天皇になってから京都朝廷の中は岩倉具視の独壇場になってくる」と書いていました。 倒幕の主役、大久保利通が家族に当てた手紙がありましたが書がとても細くて小さく女性のような書体でした。 また西郷隆盛の手紙もありましたが、これまた小さな書体でした。 昔 京都国立博物館で坂本竜馬が乙女姉さんに当てた手紙は、今にもは乱さんばかりの勢いのよい書体を観ておりましたのでとても意外でした。 ただ西郷さんの掛け軸「敬天愛人」はとても太い立派な書体でした。 資料館を回り強く感じたことは、薩摩藩が幕末期にこれだけ活躍が出来たのは、人を育て、多くの人材が揃っていたからだということなのでしょう。 何を成し遂げるにも最終的には「人」が大事なのですね。 受付の女性に西郷隆盛の終焉の地を訪ねましたら、「ここから坂道を歩いて10分」と標準語で答えるのです。 「西郷さんが逃げてきたところ」と言う言葉は飲み込みました。 門を出ると石垣・外堀と正門の橋が残っています。石垣には西南戦争の時の鉄砲弾跡が沢山残っておりました。 終焉の地の隣には真新しいマンションが建ち、その陰にひっそりとさびしく隠れておりました。 駐車場に戻り管理人のおじさんに「城山」の方向を教えてもらいましたが何故かまた標準語でした。 再度「城山」に向かってアクセルを踏み、今度はゆっくりと走ることにしました。途中洞窟を見つけ記念撮影、とても小さい洞窟が2つありました。そして展望台へと向かったのです。 展望台から鹿児島市内を見渡せるのですが、やはり霧で桜島を見ることはできません。 手持ちぶたそうに記念写真屋さんが座っておりました。おじさんに繁華街通り天文館の位置を聞き、そして今年からできた篤姫館のあるドルフィンポートの場所を教えていただきました。 このおじさんもまた標準語なのです。 薩摩隼人は何処に行ったのでしょうか・・・・「あいがともさげもした」 車をドルフィンポートの駐車場にいれ篤姫館を堪能してから回転すし屋さんに入りました。 何故かおはぎが回ってきます、さすがに甘党の私でもすし屋でおはぎを食べる気持ちにはなれません。 本来ならここから素晴らしい桜島が見えるはずなのですが・・・・・・・鹿児島まで来て桜島を観ずに帰るのは、エジプトまで行ってピラミットを観ずに帰るようなものですね・・・・ 夜の7時を過ぎておりましたが、まだまだ日が永いのです。 移動販売のお兄さんに天文館通を尋ねましたら、ここから10分ぐらいとのこと、「何処から来たのか」と聞かれたので「埼玉」と答えたら「浦和レッズは強いね」としばらくサッカー談義。 しかし 彼もまた標準語なのです。 天文館通りに向かって歩いて行くと、いきなり新幹線並みの黄色の路面電車が走ってくるではありませんか。 チンチン電車と言えば、ふるさと函館の「運転手は君だ、車掌は僕だ」とレトロ調と思っていたので、驚きです。 天文館通りは他の地方都市に見られるようなシャッター通りではなく、とても活気にあふれ東京の銀座にも負けないくらい多くの薩摩人が永い夜を楽しそうに歩いておりました。 さて NHK「篤姫」も、これから外国に立ち向かうため統一国家論・・公武合体・・・尊王攘夷・・・尊王倒幕・・・大政奉還・・・明治維新へと話が進むことでしょう。 外圧の脅威によって日本の歴史は創られてきたのですね。今も変わりませんね・・・・・ 坂本竜馬の大政奉還論は、将軍の地位をある程度認めてゆくことが前提でしたから、竜馬とそれに乗った山内容堂や徳川慶喜も公武合体論者であったと思います。 竜馬が生きていたらもっとゆっくりと血を流さずに改革が進められたと思い残念でなりません。 NHK「篤姫」、竜馬の登場や皇女和宮(掘北真希)の降嫁、楽しみにしています。 翌日は第二の目的地、知覧へと向かったのでした。 安西節雄 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.21 09:04:58
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