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夏といえば、プールや海の思い出が浮かんでくる方が多いかと思います。
私もそうです。 子供の頃、家族で行った海、そこでの父の泳ぎに惚れ惚れしたファザコンの私。 私は、私の兄を、私が生まれる前に亡くしています。それも、「池」で。 池は池でも、人工で、大きさは洗い場の大きなバージョン。幼い頃の記憶によると、3×5メートル位でした。深さは、濁っていて分かりませんでした。 両親、特に母は、水に対して、怖さと憎しみとをもって、その後の子育てをしていたと思います。 私は、小学校を卒業するまで、海に行っても、膝より深いところに行くことを禁じられました。 昔のことです、通っていた小学校と中学校にプールがありませんでした。 おまけに身体の弱かった私は、体育の授業は見学…という事が多かった。 近所の学校にプールを借りて、水泳の授業をしに行くときがあったのですが、「千鶴子は、行かせません」の母の一言に、年中欠席していたので、学校側も納得し、一度も参加できませんでした。 それが、高校には、プールがあったのです!! 中学3年生頃からは、ほとんど学校に通えていたので、自分でも体調面でも大丈夫だと思ったし、何より、泳げるようになりたかった。 母を説得し(皆さんが想像するよりも、大変だったんですよ)、水泳の授業を受けました。生まれて初めてプールに浸かった心地良さ、そして、チョットの怖さ。今でも覚えています。 親切な学校は、放課後に泳げない人達だけの水泳教室を開いてくれました。お陰で一学期の期末試験では、クロールで何とか20m位は泳げるようになっていました。 その高校では、9月にクラス対抗水泳大会が毎年開催されていました。 選手を選ぶ時、なかなか決まらなかった種目が、混合フリーリレー。 何故か、私のクラスの女子は平泳ぎしか泳げない子が多く、どうしても最後の一人が決まらない。 期末試験でクロールを泳いだ私にお鉢が廻ってくる始末。 フリーなんだから(平でも良いのだから)、25m泳げた事がない私なんか選ばない方が良いのでは…という意見もあったのに、 我がクラスの水泳エース(ちょっと憧れていました)が「まだ日にちがあるし、平よりはクロールの方が絶対早えぇ」の一言で、私に決定。 それから毎日、練習しました。怖い飛込みにもチャレンジ!! 何度も、痛い思いをしたけれど、お陰で飛び込めば、距離は稼げるので、当日までには、25m辿り着くことができるようになれました。 本番前日、エースの彼に、「ケメ子(私の当時のあだ名です)!! 何が何でも、絶対25m泳げよ!! 途中で立ったら、失格だからな!!」と渇を入れられ、失格の事を知らなかった私は、緊張でなかなか眠れませんでした。 本番!! レースの前に、エースの彼に頼みました。「飛び込みのタイミングが分からないから、私の背中を押して!!」と。 私は、ピストルの音が分からないほど緊張していたのです。 優勝はできませんでしたが、失格にはならずにすみました。私以外が結構速かったので、上位であったと思うのですが、順位は覚えていません。 終わったあと、皆が、私を囲んでくれて、「頑張った!!すごい!!偉いよ!!」と褒めてくれました。高校での最大の思い出です。 次の年の夏、私のその頑張りを見ていた他のクラスの水泳部の平泳ぎの選手が「平泳ぎ、教えてあげるよ」と言ってくれ、おまけに、水泳部の練習時に1コースを私に使わせてくれました。黙々と泳ぎました。 毎日毎日、黙々と。その夏の恋人は「ビート板!!といえるくらい黙々と。 水泳部の人の中には、「部員以外は」という人もいましたが、私の「泳げるようになりたい」という気持ちと、平を教えてくれた彼女の「いいじゃん、一コースくらい」の一言。 おまけに憧れのエースの「そうだよ、ケメ子の頑張りは、明日の日本だよ」って、訳の分からない応援で、続けることができました。 平泳ぎは、私に合っていたようで、一夏で完璧(?)に泳げるようになっていました。 大学では、水泳の授業はなかったので、その後は、友達と海なんかに行ってチョボチョボ泳ぐ程度でした。 何故か30歳近くになって家の近くにスイミングクラブなるものがあるのを知って、通い始めました。 久々にクロールを泳いでみると、25mなんて泳げなくなっていました。 また、一からやり直しです。 でも、楽しかったぁ!! 週3回のクラスが待ち通しかった。友達もできたし。 だんだん泳げるようになるもんです。「人は、続ければ…」を実感した私です。 そのスイミングクラブ、先日急逝された古橋広之進さんが主宰でした。 夜遅くに、クラスが終わった後、一人で泳いでいる銀髪の男性がいたので、誰か聞いてみたら、古橋氏だとの事。 その後何度か、25mプールを11回のストロークで泳ぐ彼をプールの上から、見ていました。彼の泳ぎに痺れていました。 全然、休まずに泳ぐので、泳ぐ姿しか見ていないのですが、その泳ぎ方ステキでした。 「フジヤマのトビウオ」の偉業は、偉業としてしか知りませんでした。その偉業を目の当たりにしている気分でした。 世界選手権や国際水連総会に出席するために出張され、ローマで亡くなられた事、彼らしいと思いました。 心から、ご冥福を祈ります。 そして有難うございました。 角田千鶴子 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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