|
カテゴリ:カテゴリ未分類
霊亀2年(716年)5月16日 日高市、飯能市を中心とした地域に高麗郡が建郡され
1799人の高麗人(高句麗人)が入植しています。 すでに東国7カ国に移住していた高麗人が武蔵国に集められていました。 今年は「高麗郡建郡」から ちょうど1300年の年に当たります。 日高市では 記念式典や歴史講演会、また記念コンサートを開くほか、当時の渡来人をイメージした服装で市内パレードを催しています。 「高麗神社」には 古代の歴史ロマンが溢れていました。 里中満智子さんはライフワークとして32年間にわたって描き続けた『天上の虹』23巻を2015年に完結させていました。 「天上の虹」の主人公は女性天皇「持統天皇」(サララ姫)です。 天智天皇を父に持ち その弟天武天皇の皇后となり、夫亡き後、その意思を受け継いで政を執り行います。 先日 対談集を読み、持統天皇は高句麗からやってきた高麗王若光と藤原京で遭遇したのではないかという仮説を述べていました。 歴史妄想の大好きな私は、予想していなかった筋立てに心を揺さぶられたのです。 日高市にある「高麗神社」には何度か行ったことがありましたが、なかなかその時代背景まで考えることはありませんでした。 「高麗神社」は 高麗王若光を祀っています。 若光は天智5年(666年)10月に、高句麗滅亡の前に国王の使節団として倭国へ来ています。 高句麗も倭国に援軍を求めたのかもしれませんが、百済救援(白村江の戦)に惨敗し、疲弊しきった倭国は高句麗の要請には応えられなかったのです。 若光は、高句麗滅亡してしまったために帰国する機会を失いました。 高麗郡建郡の時は70歳を超えていたと思います。 高麗王若光が没した後に、若光の御霊を祀るために「高麗神社」を建立しました。 高句麗の僧・勝楽は若光の菩提を弔うために高麗山聖天院勝楽寺を建立しました。 通常は1郡に1寺院が一般的なのですが、日高市の地図を広げてみると、高麗郡には 女影廃寺・大寺廃寺・高岡廃寺と1つの郡から3寺院もあります。 廃寺とは考古学で遺跡が発見されたけれど、今では寺の形が残っていない地名を言います。 寺の建立には高度な建築技術や経済的にも大きな負担となる大事業です。 高麗郡は国家から多大な支援を受けていたのではないかと考えられています。 武蔵国の北武蔵(埼玉県)は、渡来人でつくる高麗郡(716年)だけではありません。 758年 新羅郡が建郡されています。新羅郡は現在の新座、志木、和光、朝霞市の辺りになります。 新羅の人たちも 内乱によって 日本に 亡命していました。 新羅郡は後に新座(にいくら)郡となりました。また 幡羅(はら、後に、はんら)という郡もあります。 幡羅郡は 現在の熊谷市 深谷市あたりです。 新羅系の居住地は、秦氏が開発に当たった地域と言われています。 秦氏は6世紀頃に唐から朝鮮半島を経由して倭国へ渡来した渡来人で、そのルーツは秦の始皇帝ともいわれています。 秦氏の氏神は、稲荷大社と八幡宮です。その神社数は 日本で 1位、2位を争うのです。 日本にある神社のち 約7割は渡来系の神社と言われています。 さらに男衾(おぶすま)郡があります。 その郡長は渡来人の壬生吉志(みぶのきし)氏です。 彼は 百済人か 新羅人かは いろいろ説があるけれど はっきりとは解明されていません。 東武東上線に男衾駅がありますね。難読駅名として有名です。 男衾郡は、荒川中流域の南方にあって、現在の寄居、小川、滑川、嵐山、ときがわ、鳩山などにまたがる地域です。 男衾郡は8郷からなる武蔵国で最も大きい郡だったといいます。 調べていくうちに武蔵国造であった笠原氏に出会います。 ヤマト政権は笠原氏が周辺豪族と手を結ぶことのないように渡来人による笠原氏の囲い込み作戦を実施したのではないのか。 幡羅郡、高麗郡、そして新羅郡を笠原氏の周りに置きます。この時期に壬生吉志も男衾郡に配置されています。 このように 埼玉県は 渡来人が 多く移住してきた地域なのですね。 また 百済人については 近江大津宮へ遷都した天智天皇により、百済人男女7百余人を近江国蒲生郡に移住させています。 西暦663年8月28日は 古代最大の対外戦争「白村江の戦」で倭国は唐・新羅連合軍に大敗をして百済王朝が滅亡した日です。 「白村江の戦」は、百済を復興させようとした戦いでした。 斉明天皇(女帝)は どうして百済を助けようとしたのでしょうか。 百済の王子「扶余豊璋」を倭国と百済の同盟を担保する人質として入国していましたが、待遇は賓客扱いで厚遇しています。 百済重視の外交政策をとっていました。百済人は なぜか 朝廷の近くに移住しているのです。 7世紀は朝鮮半島の三国(高句麗・新羅・百済)の抗争の世紀で、そこに唐が絡んで常に戦闘状態にありました。 高句麗は現在の北朝鮮から中国の東北地方まで領有し、百済は朝鮮半島の南半分の左側で新羅はその右側を領有していました。 663年「白村江の戦」で敗れた百済が滅び、ついで668年 唐によって高句麗が滅びたのです。 中国を支配していた唐と結んだ新羅が台頭してきて朝鮮半島を統一します。 国を失った百済や高句麗の王族や貴族は続々倭国を頼って亡命してきたのです。 朝鮮半島は 当時、倭国より先進国で、また文化的にも、技術的にも進んでいました。 土器製作や機織技術、鉄器生産さらに鉱物資源の開発に貢献してくれました。 「白村江の戦」で大敗した倭国は 唐の強大な勢力の前に、いつ攻め込まれるかも知れないという危機感があり、亡命者の高度な知識や技術を活用するため、迫害することなく歓迎したのです。 ちょっと 歴史を遡るとすると。 日本書紀によれば 552年、百済から倭国に釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりと記されています。 588年 蘇我馬子は日本最初の本格的な寺院 飛鳥寺を創建していますが、起工したのは百済の工人達なのです。 百済から多くの瓦職人が派遣されています。 また本尊の塗金の為として高句麗国から黄金300両が贈られたのです。 この寺院は一塔三金堂式です。高句麗の寺院に見られる伽藍配置なのですね。 百済の工人が建てたのに 不思議ですね。 聖徳太子は、607年に隋に小野妹子ら第2回遣隋使を派遣していますね・・・ 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、……」 609年飛鳥寺が完成します。 20年の歳月をかけて完成した飛鳥の都を完成させ 先進国と肩を並べる文明国家の仲間入りを果たす第一歩となりました。 飛鳥寺を創建したことによって もう倭国は野蛮国ではありませんとね。(笑い) 当時隋の皇帝は 父親文帝を暗殺して即位したとされる、暴君 煬帝の治世の時なのですよ。 とても激怒します。 国情視察する為に倭国に使節団を送ってくるのです。 使節団には 飛鳥の都は どのように映ったでしょうか。 当時隋は、高句麗遠征を控えていたため、外交上、倭国との友好関係は必要と考えていたのでした。 暴君煬帝は唐によって滅ばされます。 蘇我馬子と聖徳太子は 仏教伝来等により日本最初の文明開化を成し遂げたのではないでしょうか。 もちろん 2回目は 西欧列強から学んだ 明治維新です。 701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記を「倭国」から「日本」と改め、そして「大君」から「天皇」となりました。 天武天皇の命により歴史編纂が行われ、712年に元明天皇のときに「古事記」が太安万侶により完成しています。 さらに8年後の720年に、天武天皇の皇子である舎人皇子によって「日本書紀」が編纂され献上されています。 高麗郡ができた1300年前は、日本の大転換期だったのです。 この時代こそ 日本の原点となったのではないかと思います。 持統、元明、元正そして孝謙と続く 女帝がこの時代を治めていたのです。 女帝は お飾りや 中継ぎではありませんでした。 古代史は史料が少ないけれど、そのことで自由に空想できるからこそ面白いですね。 日高市では 今年いろいろな記念事業を行っています。 皆様も 地元地域の 歴史に触れてみてはいかがでしょうか。 今 リオ五輪が行われています。毎日のメダル報道に一喜一憂しています。 柔道では ブラジル在住日系人との対戦もありました。南米には多くの日本からの移民の方が移り住んでいます。 日本を離れて海外に活路を見出す時代がこの20世紀にもあったのです。 選手入場の時 難民選手団には 大きな拍手が沸き起こりましたね。 「美しい昔」 国が滅び、ボートピープルとして国外へ脱出しなければならなくなった南ベトナムの人たち。 日本にも多くのベトナムからの難民が入国しています。 移民問題はこの21世紀にも起こっています。 国が亡び、文化が破壊されることは 終わりにしたいものです。 古代、日本が渡来人を受け入れたように、寛容の精神を持ち、異文化に興味・関心を持つことが、争いを避けるための第一歩ではないでしょうか。 安西節雄 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|