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テーマ:戦争反対(1187)
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産経新聞の11月21日付け「正論」に奇妙な文が載ってました。 書いたのは大阪大学の坂元教授。 -- 【正論】大阪大学大学院教授・坂元一哉 日本の戦争責任について考える ■国家が責任をとり国民が支える ≪「指導者に責任」は疑問≫ 安倍首相は国会で、いわゆるA級戦犯を戦犯とは認めない旨の答弁を行った(10月6日)。戦争責任論の整理に欠かせない重要な答弁だったと思う。 敗戦から60年以上が過ぎても、戦争責任をめぐる議論は決着していない。その理由はいろいろだが、そもそも国家全体で負うべき責任を、特定の個人や集団に負わせようとする発想が議論を混乱させてきたのは間違いない。A級戦犯がそれによって裁かれた「平和に対する罪」は、まさにそういう発想に基づいていた。 極東国際軍事裁判(東京裁判)で導入されたこの罪は、戦争を原則として違法としたうえで、その違法行為の責任を国家の指導者に負わせるものであった。裁判当時から、行為がなされた後にその行為を裁くために作られた罪であり、近代法の原則に反するとの強い批判がなされてきた。 批判の矛先は、戦争(侵略戦争)を違法としたことよりも、指導者に責任を負わせたことに向けられた。前者の考え方は不戦条約(1928年)にも見られるように第二次大戦前の国際社会で確立しつつあった。 だが後者はそうではない。従来の国際法からの逸脱は明らかだった。たしかに第一次大戦後、連合国はドイツの行動に対する責任を皇帝ウィルヘルム二世に負わせようとした。だが時間がたち、冷静さが戻ると、その考えは否定された。 ≪「対内的」と「対外的」≫ それは当然である。近代国家は個人ではなく組織で動く。指導者といえども、国家を思いのままに動かせるわけではないのである。それに、指導者に責任を負わせる考え方を徹底すれば、指導者が罪を負えばそれですべてが終わり、国家と指導者以外の国民は免責される、ということになりかねない。 近代国家の戦争責任は個人ではなく国家が負うと考えるのが筋である。国家が責任をとり、国民はその国家を、たとえば賠償金のための税金の支払いなどで、支える義務を負う。 むろん一般の国民と指導者とでは国家に対する責任の大きさが異なる。だから義務の果たし方も異なるだろう。また指導者の国民に対する責任は追及すべきである。だが、それは「対内的」な責任の話であって、「対外的」な責任とは別個に考えなければならない。 A級戦犯を戦犯とは認めないという首相の答弁は、あの戦争の「対外的」な責任は国家が全体で負うという、ごく当たり前のことを再確認させる。それを再確認すれば、戦後の日本が戦争責任を果たしていない、といった言説の誤りを正すのは容易になる。 国家がどのように戦争責任をとるかについて決まった定義があるわけではない。しかし常識的には、国境線を変更し、賠償金を支払い、戦争犯罪者を処罰し、平和条約を結べば、一応の決着がつく。少なくとも法的には決着がつく。この意味で、日本は戦争責任をほぼ果たし終わっているのである。 ≪道義的にも責任果たした≫ もちろん法的に責任を果たしても道義的な責任は残るだろう。そしてこの責任の果たし方は難しい。なぜなら道義的責任は何か具体的なことを意味するものではないし、逆に何か具体的なことをしたからといって、消えてなくなるものではないからである。 またそれは、相手に言われて何かをする、あるいはしない、というようなものでもない。そういうものならば法的責任と区別がつかなくなる。さらに言えば、他国がどのようにこの責任を果たしているかも基準にはならない。戦争の実態はさまざまだし、道義についての考え方も国によって異なるからである。だから道義的責任の果たし方については、これからも議論が続くだろう。 しかしそうだとしても、私は戦後の日本が道義の面でも日本なりによく責任を果たしてきたと考える。謝罪と反省の表明を繰り返してきたこと。戦争で被害を与えた国々の経済発展にできる限り協力してきたこと。そうしたこともあるが、より本質的には、戦後60年間、過去の過ちを繰り返さないために、国際紛争を決して武力によって解決しようとせず、平和で繁栄した国家をつくる努力を積み重ねてきたからである。 安倍首相は首相就任直後に中国を訪問して、胡錦濤国家主席から戦後日本の平和的発展を評価する旨の言葉を引き出した。私はこれを、中国の最高指導者が、戦争の道義的責任を日本が果たしてきたことを認めたものと受け取っている。(さかもと かずや) http://www.sankei.co.jp/news/061121/sir000.htm -- この文章を読んで物凄い違和感を感じました。 だって、戦争責任を指導者個人に負わせるのはおかしい、国家全体で負うべきだと言いながら、じゃあその責任を日本はどういう形で負ったのかというと、 『国家がどのように戦争責任をとるかについて決まった定義があるわけではない。しかし常識的には、国境線を変更し、賠償金を支払い、戦争犯罪者を処罰し、平和条約を結べば、一応の決着がつく。少なくとも法的には決着がつく。この意味で、日本は戦争責任をほぼ果たし終わっているのである。』 だそうで。 この「戦争犯罪者を処罰し」って何なんでしょね? その処罰された戦争犯罪者個人は戦争責任を負って処罰されたんじゃないんですか? A級戦犯という戦争犯罪者個人には戦争責任はないなんて言い出したら、日本は戦争責任を果たしていないってことになりかねないじゃないの? どうみても矛盾、もしくはダブスタにしか見えないんですけど。 それともこの「戦争犯罪者」とはBC級戦犯のような人々だけを指し、彼らを処罰することで日本は国家として戦争責任を果たした、だからA級戦犯は戦争責任を負わせるのは間違いだと言いたいの? そしてこの認識なら、A級戦犯は戦犯ではないがBC級戦犯は戦犯だと言いたいの? だとしたら、BC級戦犯の方々は本当にお気の毒。 本当に坂元教授はそんなことを言いたいのでしょうか? ******************************* まあ、戦争責任をA級戦犯個人に負わせることの是非の問題は確かにあると思います。 国家で責任を負うべきというのもその通りでしょう。 でも、じゃあその国家としての責任の果たし方というものの中に、指導者個人を罰するという行為は一切含まれないのかというと、そんなことはないでしょう。国家といったって人の集まりなんですから、国家が責任を果たす時には、どこかで個人が応分の責任を果たさなければならないのですから。 おそらく坂元教授もそれがわかっているからつい本音が出て、「戦争犯罪者を処罰し」なんて書いてしまったんではないでしょうかね。 国家で責任を負うべきというのはその通りなんでしょうけど、だから個人は責任を負わなくてもいいとは繋がらない。国家で責任を果たすために、個人が応分の責任を分担するってこともありでしょう。 そういう意味で、この「正論」はこじつけと申しましょうか、牽強付会と申しましょうか、ちょっとお粗末。 しかも、 『安倍首相は首相就任直後に中国を訪問して、胡錦濤国家主席から戦後日本の平和的発展を評価する旨の言葉を引き出した。私はこれを、中国の最高指導者が、戦争の道義的責任を日本が果たしてきたことを認めたものと受け取っている。』 ここでもダブスタ。 戦争の責任は国家が負うのであって、指導者個人が負うべきではないんでしょ。 それならその責任を果たしたかどうかだって、中国の最高指導者個人ではなく、中国という国家が認めなければおかしい。 中国の最高指導者個人が認めたなどと坂元教授が言うのは、自説の否定に他ならないのではないでしょうか。 ================================ ついでに言うと、そもそもこの元ネタの扱いからして怪しい。 坂元教授は冒頭で、 『安倍首相は国会で、いわゆるA級戦犯を戦犯とは認めない旨の答弁を行った(10月6日)。戦争責任論の整理に欠かせない重要な答弁だったと思う。』 と書いてますが、そもそもの安倍首相の答弁は以下の新聞記事にあるように、「国内法的に戦争犯罪人ではない」というもの。 -- 【A級戦犯「国内法的に戦争犯罪人でない」…首相答弁】(読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4100/news/20061006i105.htm 【「A級、犯罪人ではない」 首相、小泉答弁を“修正”】(産経新聞) http://www.sankei.co.jp/news/061007/sei002.htm -- 確かにこの答弁は、戦争犯罪人だと言い切った小泉前首相の答弁とは異なるもので、政府の方向性の修正と言えなくもないものだと思います(というか、歴代自民党政権において小泉首相の答弁が異質だったのであって元に戻っただけと言うべきか)。 ただ安倍首相が答弁したのは、新聞によればあくまでも「国内法的に戦争犯罪人でない」です。 安倍首相は(本心はわかりませんが)別に戦争責任を誰が負うべきかなんて一言も言っていない。 その意味で、そもそもこの答弁は坂元教授の「正論」にはほとんど関係ないものと言えます。 しかも坂元教授は自論の中で≪「対内的」と「対外的」≫と責任の取り方を区分して見せていますけど、それならば、この安倍首相の答弁は「国内法的に」、即ち「対内的」の話。 その答弁を引き合いに出して、 『A級戦犯を戦犯とは認めないという首相の答弁は、あの戦争の「対外的」な責任は国家が全体で負うという、ごく当たり前のことを再確認させる。』 なんて論を展開するのは、どう見てもおかしいでしょう。 自論を述べるためのきっかけにしたかったんでしょうけど、きちんと引用しなかった時点で怪しさ満点の「正論」でした。 まあ、産経らしいと言えばそれまでですけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月24日 22時46分59秒
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