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ザビ神父の証言

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2007.07.15
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カテゴリ:外国史

フランス革命(2)

では、三部会とは、どのような議会だったのか。三部会はフランス的な呼称で、一般的には身分制議会と呼ばれます。聖職者、貴族、第三身分を代表するブルジョワの三つの身分の代表で構成されますから、身分制議会であり、三身分会議即ち三部会なのです。イギリスでは1285年のモデルパーリャメント(模範議会)を嚆矢とし、フランスでは1302年の三部会が最初。英・仏でほぼ時を同じくして始められました。

この三部会、実はヨーロッパの初期封建社会においては、王権は非常に弱く、「王とは諸侯の代表者」程度にしか思われていなかったのですが、封建社会の成熟、なかんずく中世都市の発達などによって、この時期から王権は次第に強い物になってくるのです。強い力を持った王は、次第に聖職者や貴族の持つ領主権に介入し、領主の領民に対しても、王税(国王課税)を課そうとするようになります。当然領主は団結して抵抗します。すると、個々の領主との戦いなら勝つ自信のある国王も、領主連合相手ではまだ歩が悪く、領主軍の団結にヒビを生じさせて戦いを長引かせます。そうこうするうちに両者に妥協の機運が芽生えます。この国王と領主連合の妥協の産物が三部会、身分制議会だったのです。

国王は新たな課税を必要とする場合は、三部会を召集して議事にかける。独断での課税は行なわない。その代わり国王提出の議案に関して、議会はにべもなくゼロ回答は行なわない。これが妥協の内容でした。この三部会に、第三身分の代表=ブルジョワが加わっているのがミソなのです。彼等は王と領主の対立に無縁の第三者です。国王はブルジョワをうまく利用して聖職者や貴族を説得しようとしますし、領主層(聖職者+貴族)は金持ちのブルジョワジーに課税のかなりの部分を押し付けようと目論むのです。ですから、三部会は今日的な議会とは異なり、王権に対して領主の特権を守るためのものという性格を持った議会だったのです。そして、王権が強化されつつあるといっても、まだ絶対権力を獲得することが出来ないでいる時期、つまり王権強化過程の中間過程に現れる過渡期的性格のものだったのです。

従って、後の絶対王政の時代に入り、王権が絶対的な段階に入れば、三部会は開かれなくなります。フランスにおいては、ルイ13世時代の1614年にブロワで開かれた三部会を最後に、1789年まで、実に175年間も開かれずに来たのでした。その三部会を開こうというのです。ルイ16世の権力というか、聖職者や貴族に関する睨み、抑えが利かなくなってきていることが、ここから読み取れるのです。王権は衰えつつあるとでもいうのでしょうか。

先を急がず、もう少し三部会の説明にお付き合い下さい。人数はどのくらいだったのか。選出方法は。人数は時期によって違うのですが、時代が下るに連れて多数になって行きます。最後の三部会では、各身分およそ300人の代表ということになっています。人数がアバウトなのは、議決は身分別に行なわれ、最終的には各身分が多数を占めた意向を、自分たちの意見として表明するからです。表決というか投票方式は身分で1票で行なわれるのです。これが革命の初期に問題になるのです。そして選出方法は各身分に一任されています。聖職者はフランス管区の大司教以下、高位聖職者が方式を定め、それなりの選挙を行ない、貴族もまた地域ごとに選挙を行います。ブルジョワもまたパリの大ブルジョワ中心に諸都市の代表で方式を定めていたようです。

さて、では何故三部会なのか。ルイ16世政府の財政難が原因です。世評でマリ・アントワネットの贅沢が原因などと俗説が囁かれますが、それは瑣末です。問題は別です。王権が強力であれば、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿のような巨大な贅沢でも赤字はすぐに消えるのです。王権に近づきたいブルジョワたちが、先を争って高額の寄付を申し出るからです。今流に言えばワイロでしょうか。これで赤字はすぐに消えます。しかし、ルイ16世には赤字を消す力が既になかった。ここがポイントです。こうして財政難に苦しむルイ16世の政府に、ブルジョワたちは、協力してほしければ、特権身分の非課税特権を廃止し、特権身分への課税を実施せよと、迫ったのです。これがうまく成功していれば、フランス革命は起きなかったかもしれません。国王はブルジョワを味方に、ブルジョワ寄りの政策を実施したでしょうから。散々困り抜いた末に、国王は特権身分への課税を承認し、その旨を発表しました。さぁ、怒ったのは特権身分の領主達です。彼等は課税に反対し、どうしてもというなら、三部会を開き、三部会の承認を得るべきだと、古い証文を持ち出したのです。あまりの勢いに国王は、この申し出を受諾しました。こうして、「1789年5月に三部会を開くので、各身分で4月までに代表を選出せよ」という事になったのです。

5月の三部会は、こうしたいきさつで開かれることになりました。時に88年秋10月のことでした。

                  続く






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最終更新日  2007.07.15 21:38:55
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