カテゴリ:国際政治
クロニクル ニクソン訪中発表 1971(昭和46)年7月15日 この日、米国のニクソン大統領が翌年5月までに中国を訪問、朝鮮戦争以来険悪な関係のままだった米中関係を改善するため、毛沢東主席と会談する旨が、米中両国ではぼ同時に発表されました。 仕掛け人はキッシンジャー大統領補佐官でした。ニクソン大統領は就任と同時に、ハーバード大の国際政治学者キッシンジャーを大統領補佐官(2期目は国務長官)に任命、ヴェトナム戦争の集結に向けての国際関係の再構築を委ねたのでした。 キッシンジャーは、ヴェトナム戦争の集結には隣国中国の協力が不可欠と判断、中ソ対立の現状から米中関係改善にの脈ありと考え、1949年以来親密な関係にあった台湾政府(自らは現在も中華民国を名乗っています)との関係を、微妙に調整してシグナルを送り、遂に中国首相周恩来から、隠密裏の中国訪問を歓迎する旨の連絡を受けたのでした。 当時米中関係の改善は、国際政治上の大事件でしたから、なおどうなるか分からない交渉の行方を考えれば、隠密行動は米中両国にとって、必要なことだったのです。こうして彼は公式にはヴェトナムを訪問、戦地を視察するとして、軍用機で香港へ飛び、車で広州入りし、そこから北京へ飛んだのです。時に7月9日のことでした。 周恩来首相との数日に及ぶ会談の結果、中ソ対立に悩み、ソ連の攻撃を警戒する中国もまた、米中関係の改善に異論はなく、まさに「敵の敵は味方」を地で行くように、冒頭で記した翌年5月までのニクソン大統領の訪中が、決定したのです。 慌てたのは、就任以来中国敵視政策を取り続け、中国の国連復帰を妨害し続けてきた佐藤内閣でした。あせり狂った佐藤首相は、あらゆるチャンネルを通じて中国へ接近しようとしたのですが、「佐藤内閣相手にせず」といなされ、目的は達成できず、沖縄返還を見届けて、翌72年の6月に退陣するに至るのでした。 当時の美濃部亮吉東京都知事が71年8月の訪中時に、周恩来首相に宛てた佐藤首相の親書を託され、周首相との会談時に手渡そうとして、「これはなかったことにしましょう」とやんわりと受け取りを拒否されたのも、佐藤首相の焦りを示す一幕でした。当時美濃部知事も二期目の任期中で、選挙戦ではストップサトウと佐藤内閣との全面対決を掲げて圧勝していただけに、後日明かになったこのエピソードは意外感を持って受け取られたのですが、その点について美濃部氏は、日中関係の改善は急務であり、人を選り好みすべきではなく、判断は周首相にお任せすれば良いと考えたと、答えていたのが印象的でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.15 14:16:44
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