カテゴリ:外国史
フランス革命(4) こうして三部会が始まりました。第三身分代表が600名に増えましたから、およそ1200名の大部隊です。第三身分の代表には、シェイエスやミラボーといった特権身分に属する改革派もいましたが、多くは弁が立ち、学識に優れるとの理由で選ばれた弁護士や公証人といった司法関係者でした。後の恐怖政治期のリーダー、ロベスピエールもアラスの弁護士から三部会議員に選ばれています。 問題は聖職者や貴族の議員にあります。実は高位聖職者は、民衆の暮らしからは隔絶した事実上の大領主です。しかも宗教界の権威を保つ事が自身の身分を守るために必要ですから、あらゆる改革に反対する頑迷固陋な保守強硬派でした。革命の本格化後、ローマ教皇は革命を否定し、為にフランスの革命派とローマカトリック教会は完全に敵対関係に入ったことは良く知られる事実です。ところが、全フランスの高位聖職者を全員三部会の議員にしても、とても100人に達しません。それゆえ第一身分の200人以上は、下級の司祭なのです。このうち何10人かは、管区の司教や大司教の命令に忠実に従いましたが、全体の6割に近い170~180名は、庶民に密着した生活をしており、貧民の生活改善に心痛める隠れ改革派と呼んで良いような立場にあり、ブルジョワの叫ぶ憲法の制定、改革の必要性に心情的に共感を示していました。そして貴族の中には、イギリス的な工業システムや農業のシステムの改革の必要を説く、自由主義貴族がおりました。アメリカ独立戦争に私費で参加したラ・ファイエットやミラボーがそうですし、王族のオルレアン公もまたその1人でした。貴族身分の代表のうち、40~50名がこの立場でした。 しかし、当初は改革は進みませんでした。投票方式が決まっていないからなのすが、全国から集まった第三身分の代表は、ほとんどが互いに初対面ですから、互いに知り合い、打ち解けるのに時間がかかったからなのです。これが大貴族や高位聖職者であれば、王の宮殿などで、既にして互いに知り合っているのですが… こうして1ヶ月が空しく空費されたのですが、それは無駄な時間ではありませんでした。ブルジョワたちは、第1次の選挙集会の熱気、託された請願書の束と、その背後に息づく民衆の呼吸を背負っているのです。何も出来ずに空しく帰るわけにはいかないという思いを、共通に持つのは当然のことでした。この思いが彼等をつなげ、次第に固い団結を育み、6月に入ると数を力に実力行動にでようという空気が、急速に広まり始めたのです。 詳しくは記しませんが、第三身分は自分達の会議に、他のニ身分が合流するよう呼びかけを発したのです。6月10日のことでした。賭けは成功しました。聖職者の中の改革派から、少しづつ同調者が出始めたのです。16日までに19人の聖職者代表が合流しました。勢いを得た第三身分は6月17日に第2の手を打ちました。彼等は三部会を否定し、自分たちの会議を「国民議会」と命名したのです。貴族部会では、国民議会への合流提案は、賛成80票で否決されましたが、予想を超えて80票もの賛成が得られたことは衝撃でした。こうなると聖職者部会はどうかが注目されました。議長は採決を延期しようとしたのですが、合流派は強引に採決に持ち込み、12票差という僅差でしたが、合流派が勝利したのです。 情勢は急変したのです。驚いた保守派は、いかに聖職者の国民議会への合流を阻むかに苦慮し、6月20日の朝、第三身分の使用していた会議場を、改装を口実に緊急閉鎖して、立ち入りを阻止したのです。会場を閉鎖された第三身分の議員達は大いに悲憤慷慨し、小雨の中を会場になりそうな場所を探して歩き、テニスコートの建物に入り、ここを臨時の会議場にしたのです。高窓から僅かに光が入るだけの殺風景なホールが、あの「テニスコート(球戯場)の誓い」の場となったのです。 「我々は憲法が制定され、その基礎が確立されるまでは、決して解散しない。事情によって、いついかなるところにおいても、必ず集合し、会議を開く…」翌日、一部の貴族と、約半数の聖職者が、国民議会に合流しました。国民議会賛同者は800名に近く、議員の3分の2を確保したのです。票決問題の決着はこうしてつきました。多勢に無勢です。27日国王は、なお残る保守派議員に、国民議会への合流を勧告しました。7月7日、国民議会に憲法委員会が設けられ、9日には、憲法制定国民議会という正式名称も定められました。 第1段階の革命はここに完了したように見えました。しかし、第2幕があったのです。そうでなければ、バスティーユ襲撃がなくなってしまいますよね。 続きは明日に お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.18 10:09:31
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