カテゴリ:外国史
フランス革命 閑話休題 昨晩、バスチーユは専制の象徴として攻撃されたのではない、あくまでもそこにある武器の調達が目的だったのだと書きました。これが真実です。ところが日本では、現在でも7月14日に民衆は、専制の象徴であるバスチーユ監獄を襲撃したと、間違った説明をする受験参考書などが後を絶ちません。 困ったことなのですが、何故このような誤った理解が幅を利かすようになったのかを、お話しておこうと思います。 昨晩書きましたが、1789年のバスチーユにはこそ泥クラスの犯罪者などが7名収容されていただけでした。政治犯は1人も収容されていません。蜂起民衆が政治犯を奪い返しに来たとする俗説は、実を言うと、革命に反感を持つ王党派の歴史家たちがしきりに言いふらしたデマなのです。革命派の民衆は、こそ泥しか収容されていないバスチーユに多くの政治犯が収容されていると考えるような、オマヌケな連中だったのだと、言いふらすために… 日本では、これを政治犯の収容所=専制の象徴と捉え、武器の調達よりも専制の象徴を民衆蜂起が打倒したと解釈した方が、いかにも革命らしいと考えたのでしょうか、革命史の史実があまり伝わってきていない明治・大正期に、この説がすっかり定着してしまったのです。そのためか、いまだにバスチーユ襲撃は専制の象徴を破壊し、政治犯を救出するためだったとする解釈が、時々顔を出します。 どうぞ、この手の俗説をお信じにならなようにお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.20 21:18:48
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