カテゴリ:外国史
フランス革命(8) 7月14日の動きは、5月以降のヴェルサイユでの議会の動きの延長戦上にありました。ですからバスチーユ襲撃でフランス革命が始まったわけではありません。しかし、この事件が初期のフランス革命の方向を定める上で、決定的な影響を及ぼしたことも確かです。 バスチーユでの戦闘と陥落の報は、夕闇迫る時刻にはヴェルサイユの国民議会に伝えられ、議会は直ちに代表を送って国王にも事実を伝えました。この時点での国王は、軍の反撃ですぐに王国の秩序を回復出来ると、まだ事態を楽観していました。国王が事態の深刻さに気づくのは、パリ防衛軍司令官から、部隊の兵士が民衆に同調して出動を強制すれば、反乱が起きそうだとの報告を受けた時でした。 翌15日パリでは、国王の政府が任命した市政府が解体され、三部会議員を選出した選挙管理委員会が中心となって、市政革命が宣言され、テニスコートの誓いを議長として読み上げたバイイが市長に就任、市民軍は国民衛兵と改名して、その司令官には貴族身分ながら、革命支持派のラ・ファイエットが就任しました。パリ市に革命派の政府が出来あがったのです。 兵士が革命を心情的に支持しているのですから、軍事的反撃は不可能です。では地方または国外へ逃亡し、軍事力の再建を図るのはどうか。この案も道中の安全が保障できないからとした将軍達の反対で消えました。反撃も逃亡も出来ない国王に残された道は、革命との共存しかありません。こうして国王は、いままで拒否し続けてきた立憲君主制を受け入れるしかなくなったのです。 17日、国王はパリ市庁舎に出向き、市政革命を承認します。国民衛兵の3色の記章を帽子につけ、バルコニーから民衆に手をふる姿は、革命の第1段階での革命派の勝利を物語るものでした。バスチーユ襲撃は、事件の中身よりも、それが及ぼした影響の点で、フランス革命史に大きな意味を持っているのです。 そして、ここまでに記したことは、革命に与えた影響のまだ1部分に過ぎないのです。パリの事件は全国に伝わり、各地に連鎖反応を起こしていくのです。その部分は今夜にでも記そうと思います。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.21 14:23:34
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