カテゴリ:外国史
国王と議会のパリ移転後、しばらくすると民衆運動は鎮まります。89年の秋の豊作が、食糧危機を解消したからです。こうした落ち着いた状態の中で、憲法の制定作業と、そのために必要な絶対王政の諸法令の改廃の作業が続けられていきます。 この時期の変化で重要なのは、89年秋のジャコバンクラブの誕生です。ヴェルサイユ時代は、ブルターニュ州選出議員を中心としたブルトンクラブが議会の議論をリードしていたのですが、5月以降半年に及ぶ政治経験を議員達が積む中で、ブルトンクラブは次第に輝きを失って、乗り越えられて行きます。 パリ移転はその流れを決定付けました。パリに移った第3身分の議員達は、新たな革命派の集会場を必要としました。開明派の貴族たちは、自分たちのサロンという恰好の場所を持っているからです。幸い議会に近い、サン・トノレ街のジャコバン派修道院の食堂を集会場に貸してもらえることになりました。ジャコバンクラブの名は、この修道院の名からとったものです。 11月初旬の設立当初、約200人の議員が会員になりましたが、やがて議員以外の会員も加わり、翌90年の夏には、会員数は1000人を越えるほどに、急成長してゆきます。 しかし、91年春頃までの議会の議論を主導したのは、何といっても、ラ・ファイエットやミラボーらを中心とする自由主義貴族のグループでした。彼等は一定の範囲で国王大権を認める、王権の強い立憲君主政の実現を目指し、国王大権を否定しようというジャコバンクラブを抑えこむことを目指したのです。 ジャコバンクラブでは、後にフィーヤン派と呼ばれるようになる急進的な立憲君主政を目指すグループが主導権を握り、自由主義貴族と対立していました。 こうした対立を含みながら、そしていくつかの地方的な騒乱を持ちながらも、比較的平穏に法律革命が進行していったのが、91年6月の国王一家の逃亡までの状況でした。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.28 21:27:48
コメント(0) | コメントを書く
[外国史] カテゴリの最新記事
|
|