カテゴリ:外国史
フランス革命(16) 「人民の友」という不定期刊の新聞(最も当時の新聞は皆そうでした)を発行していたマラーという人物については、ご存知の方も多いと思います。 このマラーがパリ市民の間で名声を高めたのが、国王逃亡の危険性を声高に訴え続けたことでした。実際の逃亡は、1791年6月21日の朝7時頃に明らかになるのですが、この国王の逃亡計画に対し、警告を発していたのは、マラー1人だったのです。しかし、彼の警告に耳を傾ける民衆は、ほとんどいなかったのです。 国王の弟たちは、89年の10月事件の後に国外に逃亡しています.チャンスのある時に逃亡せず、何故この時期に逃亡することを選んだのか? 実は89年段階から国王の逃亡計画は、何度か計画されていますが、いずれも日の目を見ることなく、時が経ちました。90年10月から、国王は独自に逃亡計画を立て始めます。 今日では、良く知られている事柄になるのですが、国王の革命に対する同調姿勢は、全く表面的な偽装でした。国王は、ウィーンやマドリードの宮廷に何度も使者を送り、列強の干渉を要請し続けます。しかし、直接干渉軍を派遣する気のない、各国の宮廷は、国王が表面的にせよ、国民議会への協力を宣誓している以上、干渉の口実がないこと、武力干渉は国王一家に危険を招きかねないため、王家のパリ脱出が先決でるとの態度を崩しませんでした。こうした返答に対し、国王と王妃は、軍を派遣したくない逃げ口上と判断し、実際に逃亡することで、逃げ口上を封じ、否応無く軍を提供せざるをえない状況にすることを狙ったのでした。 そして様々な準備の都合から、予定日は2度変更され、6月20日深夜の決行がきまりました。ブイエ将軍が途中からの護衛にあたり、国外へ無事お送りする任務を受け持ち、王妃の愛人スウェーデン貴族のフェルセンが宮殿脱出の手はずを整える役割を受け持ちました。 フェルセンは顔の広さを生かして準備を進め、ロシア貴族のコルフという男爵夫人が帰国するために注文した大型馬車(6人乗り)を譲り受けることに成功します。同時にパスポートも譲り受けました。しかし、この大型馬車を宮殿まで持ち込むことは出来ませんし、パリ市内で発見されては何もなりません。馬車はサン・マルタン市門の外で待機し、そこまで徒歩で目立たぬように三三五合集まることにしました。午後10時過ぎに、別々に宮殿を抜け出し、21日午前2時半頃にパリを後にしたことがわかっています。 大型馬車には、国王、王妃、2人の子ども、王妹、それにコルフ男爵夫人に成りすました王太子の保母の6人が乗り、車の後に2人の従者が立っています。荷物を積んだ別の小型馬車に2人の侍女が乗っています。騎馬の先導も2人です。こんな大掛りな一行が深夜はともかく、人目を引かずに日中の街道を走りきることがいかに難しいかは、想像に固くありません。91年6月という時期に、国境に近いヴァレンヌまで、良くぞ行きつけたものだと、私は感じます。 革命史の王道からすると、横道にそれますが、ヴァレンヌで農村住民に「発見」されるまでのいきさつを、もうしばらくゆっくりと見て行きたいと思います。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.29 02:45:06
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