カテゴリ:外国史
フランス革命(19) 王家の国外脱出はこうして失敗しました。計画そのものに、どれほどの覚悟があったのかが、疑わしいことは、今までの記述でお気づきと思います。しかし、最大の困難は、封建制廃止の決議を封建地代(年貢)の無償廃止と捉えた農民が、有償と知って再び領主層との間に激しい敵対関係を生じていたことでした。緊張し、警戒態勢にあたからこそ、非常召集や行動への立ち上がりはスムーズだったのです。 国民議会は、王家の連れ戻しを素早く決定すると、自由主義貴族から1名、ジャコバン穏健派と同じく急進派から各1名の3名の代表を派遣して、王家の護送にあてました。 ジャコバン派の2名は、後フィーヤン派のリーダーとなるバルナーヴと、後にダントンと行動を共にすることになるペシヨンでした。3名の議員は、23日夕刻王家の馬車と合流します。護送された馬車はゆっくりと行進し、25日夕刻にパリの市門を通過します。国王に裏切られたと感じているパリ市民は、沈黙をもって国王を迎えます。市門を警備する国民衛兵は、まるで葬列を送るかのように、銃をさかさにもって王家を迎え、抗議の意志をあらわしたと記録されています。 議会では、何とか事を穏便に済ませたいと考える層が多数派を形成、議会の調査委員会は、王家の脱出はブイエ将軍の陰謀であり、彼が渋る国王を強引に連れ出した事実上の誘拐であるとの結論を纏め、議会に報告しました。事実を誘拐にすり替え、穏便に事を済まそうとしたのです。憲法を制定し、法の前の平等を実現することで、早期に革命を収束させたい、これが彼等の狙いでした。国王誘拐説は、ルイ16世の王位の保全に役立ちますから、王党派にも文句はありません。こうして流れは決まって行きますが、国王に裏切られたと感じているパリ民衆はそうはいきません。 民衆の1部は、始めて共和政の主張を打ち出します。またルイ16世の王位を認めず、幼い王太子をルイ17世として即位させ、オルレアン公を摂政とする案を出すグループもありました。民主派が分裂する中、共和派のグループは、7月17日にシャン・ドゥ・マルスの広場で、国王の退位と共和政の樹立を求める請願大会を開きます。約5万人が共和政の請願署名に参加するために、この集まりに参加しました。市長の許可もある合法的な大会でした。 しかし、人が集まるとトラブルも起きます。ちょっとしたゴタゴタが、介入の口実になり、ラ・ファイエットは1万人の国民衛兵を動員して、集まっていた民衆に発砲を命じます。50名の死者、200名以上の逮捕者を出したシャン・ドゥ・マルスの虐殺です。共和政を激しく主張していたダントンは、この事件後危険を感じてイギリスへ亡命し、約1年亡命生活を送ることになります。 しかし、この事件はまた、民衆に発砲を命じたラ・ファイエットにとっても命取りになりました。パリ市民に人気があったことが彼の政治生命を支えていたからです。民衆は仲間に発砲した彼が、自分たちとは相容れない異質な存在であることに気づいたのです。 そしてまた、国王の逃亡は、もう一つの重大な問題を派生させました。そのことは次回に記します。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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