カテゴリ:社会風俗
クロニクル 松川事件
1949(昭和24)年8月17日 66年前のこの日、午前3時9分頃、東北本線の松川駅(福島県)付近で、上りの旅客列車が脱線転覆し、乗員3人が死亡する事故が起きました。事故現場のレールの釘が何者かによって、抜き取られており、それが事故の原因でした。 翌18日、内閣官房長官が、「集団組織による計画的妨害行為」とする政府見解を公表、警察の捜査をその方向に向けました。福島県警は、内閣の見解を忠実に守って、その線での捜査を行い、9月に入って、国労福島支部の組合員と東芝松川工場労組の組合員ら計20人(その多くが共産党員でした)を逮捕しました。 折りしも、ドッジラインによるデフレ政策の進行で、不況色が強まっており、行政整理や企業整理による失業の増大に対する、労働者の抵抗運動が強まっていました。こうした事情から、マスコミは、下山事件、三鷹事件に続く、国鉄をめぐる第3の怪事件と書き立てました。 裁判は、急ピッチで進められ、翌1950年には一審判決が下り、死刑を含む全員有罪が宣告されました。しかし、裁判の進行に連れて、弁護団の半端でない努力が実を結び、警察および検察が、共産党員らの犯行だという予断をもって臨んだことによる、冤罪事件ではないかという疑いが強まり、作家の広津和郎らを先頭に、精力的な裁判批判の運動が広がることになりました。公正な裁判を獲得して、民主主義と人権を守る運動が、大きな高まりを見せたのです。 こうして、高裁からは一転して慎重な審議が行われ、最高裁は原判決を破棄して、差し戻しを決定、ようやく1963年に全員の無罪が確定しました。 しかし、事故から14年が経過しての無罪確定でしたから、真犯人の追及はなされないこととなりました。既に時効が成立していたからです。政治の介入が、公正な捜査を曲げ、犯人追及を不可能にした事件として、松川事件は、忘れられない事件となりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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