カテゴリ:国際政治
クロニクル イラン・イラク戦争停戦
1988(昭和63)年8月20日 33年前のこの日、戦争中のイランとイラクは、停戦に合意した旨を同時に発表しました。以後両国の間に、本格的な戦火が飛び交うことはなく、ここに、1980(昭和55)年9月9日に始まった両国の戦争は、約8年を経て、ようやく終わりを迎えることになったのです。 79年のイラン・イスラム革命の成功を受け、クウェートやサウジアラビアなど、なお王政を続けるアラビア半島の国々は、イランによる革命の輸出方針を脅威と受け止め、イラン・イスラム革命に対する防波堤の設置に頭を悩ましておりました。 そして、アメリカもまた、前政権擁護の姿勢をとって、イラン革命政府と対立、テヘランの米大使館が、イラン学生に占拠、封鎖されて、大使館員全員が人質とされたことで、イラン政府と犬猿の仲にありました。 イラクでフセインが大統領職に就き、政権を掌握したのは、1979年7月、イラン革命の約半年後のことでした。フセインは、アラブ諸国や米国の反応を知り、隣国イランとの国境問題を、自国有利に解決するチャンスと考え、80年9月に対イラン開戦に踏み切ったのでした。 この戦争では、イラクの戦費の大半は、サウジアラビアやクウェート等が喜んで提供してくれる借金で賄われたため、イラクは無尽蔵に近い資金を抱え、米国や英国から空軍機やミサイルを、中国・ロシアから戦車や地雷を、そしてドイツから毒ガス兵器や工場を購入するなど、イラクにはアラブと欧米の応援団がしっかり就き、圧倒的にイラク有利の形が出来上がっていました。 それでもイラクはイランに勝利することは、出来ませんでした。フランス革命における対仏大同盟との戦いにおいて、革命の祖国を防衛しようとする国民の強い意志が、国内をまとめ、劣勢を挽回する重要な契機になったのと同じく、イランの国民は一致団結してイラク軍に向かい、ついに痛み分けの形で、戦闘の終結を迎えることになったのです。 そして、このイラン・イラク戦争で、イラクが入手した近代兵器こそが、その後イラクを中東の鬼っ子、制御不能の暴れ馬にした最大の原因を構成したのです。90年代からのフセインを作ったのは、米国であり、ドイツ(当事は西ドイツ)であり、そしてEUやアラブの金持ち国だったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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