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カテゴリ:中島三郎助
中島さんと土方さんは親しかったはずだ(←断言!)
まず何処で最初に会ったのか? これは大阪だと思いたい。 慶応4年1月、鳥羽伏見でまけた幕軍は大阪城に集結。 9日、新選組は「富士山丸」と「順堂丸」に分乗して江戸へ帰るわけだが、 土方さんは「順堂丸」に乗ったといわれている 一方、中島さんはその前年の9月に「開陽丸」で榎本さんたちと大阪へ来ていた。 浦賀でもらった年表には「12月に朝陽丸で帰府」とあるが、この時期そんなに行ったり来たりしてたのか? いやいやそのまま我が国初の海戦、淡路島沖の春日×開陽丸戦に参加したと思いたいじゃん♪ d(⌒o⌒)b♪ そして、慶喜逃亡の後一緒に江戸へ戻った可能性はないとは言えないよね。 まぁ、親しく話したかはどうかはそこまで都合よくは行かないだろうからひとまず「知り合い」程度だったとしよう。 次にあったのは多分仙台。 慶応4年、8月末に榎本艦隊に乗船して仙台松島湾に到着してるから9月には土方さんと合流していたはずだ その頃土方さんと榎本さんは仙台の説得してたからのんびりする暇はなかっただろうな すると仙台が降伏して旧幕軍が仙台に集結した辺りから蝦夷へ渡るくらいの間に親しくなったのか…! なんでそんなに親しかったはずだと断言するかと言うと この年の暮れ、12月29日に行われた箱館在住の俳人孤山堂無外による句会に中島さんと共に 土方さんが出席して、(大それたことに)句を披露しているのだ 戦ばっかりしていた土方さんが俳人の弧山堂無外と知り合ったとは思えないし、何より無外と三郎助さんは旧知の仲。 これは句会に連れて行ってくれるように土方さんが頼んだのに違いない。 そんなこと頼めちゃうくらい仲が良かったのさ。 他には川村禄三郎が出席したというこの句会、中島さんの句が最高点をとったとか…。 ってことはなに?点をつけたわけだね、みんなの句に。 土方さんの句は…まぁいいや(笑) ちなみにそのとき詠んだ土方さんの句は 「わが齢 氷る辺土に 年送る」 年が明けてからしばらく、土方さんは五稜郭ではなく箱館市内にいたと言う話もあり、そしたらますます三郎助さんの千代ヶ岡とは近かったよね。 ともかくこの弧山堂無外なる方、三郎助戦死の際 「武士の魂か 一声ほととぎす」 と詠んだ。 これは三郎助の辞世 「ほととぎす 我も血を吐く 思ひかな」 と並べてみると…。(T_T) 土方さんと三郎助さんは似てるかもね。信念の貫きかたというか、生き方が。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年02月20日 22時59分44秒
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