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カテゴリ:中島三郎助
龍神さまが付いていたので出かけるたんびに雨だったけど、どうやら龍神さまはお休みらしい。
この隙に!! 中島三郎助、第6回。←まだ続いていたのよん。ふふふ さて。今日を一言でまとめると…。 浦賀文化センター内の展示室はスゴイ! これでしょう。 さすがお膝元。資料がごろごろ。 ~鳳凰丸復元模型~ 嘉永7年(1854)ペリー来航の翌年、三郎助が建造主任となって完成させた、日本初の大型洋式軍艦。 外国からの技術指導もなく、造船書だけを頼りに作られたというのだから、スゴイ。 ペリー来航のときサスケハナ号に乗り込んだ三郎助がいくら熱心に見て回ったからって、それだけでこんなの作っちゃうんだから、やはり才能ある技術者だったんだろう それまでの国内船とは桁違いの大きさで、砲10門を備えていたという。 既に世界では蒸気船が主流となっていたとは言え、何もないところから造る。というところがねぇ。 船体には朱塗りに黒のストライプ、帆は幕府所属を表す黒の横一文字。日章旗。 そして舳には「鳳凰」 本当にこんな色だったかどうかは謎だと思うんだけど、たいしたもんです。 5月には浦賀奉行戸田伊豆守をはじめとする奉行所の役人を乗せて、房総半島の沖合いまで試乗し、好評を博した。このとき三郎助は褒美を貰っている。 翌、安政2年(1855)には幕府の要人をたちに披露する為、仮の艦長を三郎助と与力・佐々倉が務めて江戸、品川沖へと回航。途中艦砲射撃の演習までしている。 品川沖へと現れた鳳凰丸を見た江戸湾警備のものの中には異国船来航と勘違いして幕府に注進したものもいたとか…。 そのくらい良く出来ていたのだ。 品川沖では老中阿部正弘を始め、若年寄・大目付・目付・御側衆など幕府の主要閣僚が連日見分に訪れ、見分は大成功。三郎助をはじめ、乗組員に褒美が与えられた。 こうして鳳凰丸建造を通して軍艦の必要性を感じた幕府は長崎に海軍伝習所を開設する事になるのだ。 しかし時代は蒸気船に移り変わっており時代遅れとの感も免れず、おまけに勝海舟が鳳凰丸のことを「やっかい丸」と称したので鳳凰丸に対する評価はますます低いものとなってしまった。 なんて余計なことを言うんだ、コイツは。 やっかみか? もしや、それで仲悪くなったのか? その後、仙台藩へ貸し出された鳳凰丸は慶応4年戊辰戦争の折、榎本艦隊に接収され蝦夷地へ渡ったらしいのだが、その後は良く分からない。 浦賀文化センターの学芸員さん(?)はとても親切。 怪訝な顔をしながらも的外れな私の質問にも丁寧に答えてくださった。 おかげで謎が増えたんだけどおいおい探していきましょ。 とまぁ、こんな調子でまだまだ続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年06月08日 09時24分32秒
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