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テーマ:たわごと(26867)
カテゴリ:幕末・あらかると☆
函館新聞、明治14年の新聞。
まずは5月24日付 「去る己巳(つちのとみ)の年、当港戦争」←いわゆる、箱館戦争のことだよね。 の13回忌なので、その時生き残った戦友で現在東京にいる有志者が今月21日上野東照宮社内の祠官(神社の神職)の宅で会合し函館に建設した碧血碑の保存方法などを話し合った。 中心となったのは榎本武揚、永井尚志、大鳥圭介、荒井郁之助、澤太郎左衛門等ということだ。 また、来る6月6・7日の両日は旧暦5月11・12日に当たり、すなわち函館没落(?箱館総攻撃の日だよね?降伏は18日。11日は土方さん戦死の日、12日は伊庭クン自刃の日。まさか) の日なので徳川旧臣脱走(←当時は蝦夷チームのコトは「脱走さん」とか呼ばれてた)戦死の13回忌大法会を谷地頭碧血碑前に於いて執行されるという。 施主は実行寺(箱館戦争の戦死者は会津と同様やっぱり葬れなかったのを熊吉さんと実行寺のご住職が葬ってくれたのだ)松尾日隆氏。 ようやく、東軍の戦没者の供養がおおっぴらに出来るようになったのだねぇ。 6月7日付 碧血碑の祭典もいよいよ今日(雨天日送り)からですが、奏楽は午後三時より、明日は正午十二時より始められます。 祭典 かなり大掛かりのものみたいです。 6月9日付 兼ねて当港にその名を知られる写真家の田本研造氏(蝦夷チームの写真を撮った人。土方さんもこの人が撮ったといわれている)はその技にさらに磨きをかける為、研究方々内国博覧会見物を兼ねて、先頃師弟共に出京していたが、同氏が明治六年中、谷地頭の碧血碑建設委員の依頼に依って碑の写真を中判型に撮りその種板も添えて送ったところ、その種板はその頃東京で有名な内田九一の手に渡ったがあたかもこの頃田本氏が出京中、種板を売り出したのを同業中で見出しそれを買い求めて帰函させた。 幸い今度碧血碑の13回忌の祭典に付き右の種板で碧血碑の写真を手札にして50枚くらい祭主へ寄贈した。 また新発明の写真付属機械も色々持ち帰ったと聞く。 内田さん、勝手に売却 ヒドイなぁ。手元に戻ってよかった。 祭主って榎本さんたち?実行寺のご住職? 6月11日付 亀若町東照宮境内の相撲も本日好天気で千秋楽に付き明12・13日、天気次第で午前十時頃より招魂社境内で始めるが今年は函館戦争の13回忌に付き無料で見せるという事だ。 函館の東照宮は明治2年5月10日焼失 御神体は神山村奥の板倉へ奉還。 その後、元の神山村で祭祀を続けたが明治7年谷地頭に移転。更に同11年南新町に移遷を繰り返し、翌12年蓬莱町(後に宝来町)に遷座した。 だから当時14年には宝来町にあったものと思われる。詳細な場所は不明。 ちなみに平成3年、もとの鎮座地に近い陣川に移転することになり、同4年5月7日、盛大に遷座祭が執行され、これを機に社名(通称)も北海道東照宮(函館市陣川82-153)と改めた。(「家康公と全国の東照宮」より) この東照宮は蝦夷チームもお正月に皆でおまいりに行ったところだよね 6月13日付 広告 本日招魂社境内に於いて奉納相撲興行相成り候に付き衆庶縦覧苦しからず候。このこと広告す。 但し雨天の節、日送りの事 明治十四年 函館支庁 六月十三日 学務係 東軍の13回忌の法要の相撲を西軍の招魂社でやるってことね。 平和な時代が来たってことなのかしら 6月21日付 先年函館戦争の節、七重浜沖に於いて沈没した朝陽艦はその後ブラキストンや小野組その他のものが引き揚げようとして色々骨を折ったけれどついに果たせず、それからこの六年前西浜町浜野宇吉が同艦を買い受けたがこれも揚げかねて同年中熊本県人松山定吉、東浜町谷太郎吉のふたりへ250円で売り渡したところ右の二人は水雷火を仕掛けてスコロクをそのままで引き上げた。 青銅で斤量3260斤ありその他いろいろのものを取り混ぜその年中に引き上げた。 およそ2000円くらいの金額だった。 その後昨年に至り1000円ばかりの品を引き上げ、またこのほども潜水器で、去る17日まで僅か5日間に700円ほどのものを取り上げた。 またその後、近海で破船した西洋型帆走東洋丸をも右ふたりが1100円余で買いうけ2~3日前から引き揚げに着手したと言う 朝陽艦は西軍の艦。 あの5月11日、「蟠龍」が砲撃して大爆発を起こし沈没した艦。 その大爆発をみて土方さんは…。 そうか、朝陽は引き揚げられたんだったね。 なんかこの日にこの記事が載るのも不思議な因縁。 同日 昨日の招魂社例祭は天気殊に晴朗で参詣人の集まりは近来見ないほどだった。 午前には123の消防組一同隊伍をなして押し出し各所に於いて梯子乗りの芸をなし、また宝町芝居座で踊りなどもだした。 市中はその前夜より家並みに紅白の球燈を釣るし夜になればいっそうの美観を添えた。 その中でも最も注目して讃えられたのは招魂社前に掲げた花菱形の献灯で該燈は紅白の球燈数十で造られて在函旧松前藩士の目論みだという。 さてまた競馬は昼12時から始まり七重試験場より出た馬はアメリカ前大統領グランド氏より寄贈された駿馬をはじめ8頭、その他市在より出た馬は50頭で互いに勝敗あり、喝采の声天地に鳴り響いて当日第一の勝を占めたのは当支庁より出た江差という馬だと言う。実に盛んなる祭礼でありました。 あぁそうなの。招魂社は毎年祭礼をしてたんだ。 しかも消防の出初式みたいなものや、美観な献燈、踊りなんかしちゃったり、競馬したり。 ふーん、そうなんだ。 新聞をざっと読んでみました。 意味不明もありますが、まぁこんな記事を見つけたわけです。 この頃の広告に「資生堂」がありまして「神薬」と言うのを売ってました。 なんと松本良順先生の調合だって~。 北海道まで手を伸ばしてる資生堂。 ちゃんと医者をやってる(←あたりまえなんだが、やっぱり凄い)良順先生。 時は流れていく。 ヒトノオモイハドコヘユク? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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