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テーマ:読書(8213)
カテゴリ:本日読了
2023/09/18/月曜日/秋はどこ?
〈DATA〉 岩波書店 著者 簾内敬司 1997年9月15日 初版第一刷 〈私的読書メーター〉〈『千年の夜』続編。東京で就職した僕が、公子の死をきっかけに帰郷を決意。村暮らしも落ち着き三人組復活と窪地の李さんとの関わりが深まる。著者が「ねんごろ」と表すのも懐かしい。李さんの生計の助けに花卉栽培を勧めると李さんは規模を更に拡大する様子。気分を転じようと出かけた海べで4人は祭りに出会す。篝火を囲み、横笛奏でる女踊りは浜に流れ着いた死者を慰める踊だという。無言で見つめる李さんの涙に篝火が宿る。ひたすら耕すお花畑、花は売らないと李さんは言う。李さんの願いと3人の友情は希望の橋渡しとなる予感で閉じる。乞う続編 ー海抜け ー谷の研究 ー涙ぐむ目で踊る 三章立て。 李さんの過去が語られる。 花岡事件を思わせる背景や自警団を率いた村の区長のその後の姿は、映画「福田村事件」を思い出させる。 その頃まだ生まれていないぼくたちではあったが、村で積極的に語られて来なかった事件を知るようになる。 三人組の内村に留まった田口は町役場に、西方は農協に職を得たのだから、町村の歴史は徐々に三人に共有されたのだ。 村は山の谷深い場所にあり、町から差別されている。町の中学に上がると肌身にそれを感じる。 町は大きな市から見下される。大きな市も東京からは田舎者と扱われる。 東京も京都人からは所詮田舎者の集合地なのだろう、そんな扱いを受けたとアルバイト学生が話したことを東京に勤務していた時代の話として父が語ったことを思い出す。 普通に考えればバカバカしいにも程がある。属性には意味がない。その人間を人間たらしめている本質こそ鑑賞され交流される価値のあるものなのだ。私にとって簾内敬司という作家に出会ったことは今年最大の収穫だ。 ふと漏らした李さんの「海へ行きたい」。考えてみれば山襞の窪に住むぼくらは海を初めて見たのは遠足の時。その記憶は鮮烈だった。 李さんにとって海は捕縛されて来たこの国と祖国の間の回廊なのだ。三人は李さんを誘い、県境にほど近い日本海の小さな浜に辿り着く。 40年前の李さんの、鉱山からの逃散は海を目指したのだった。40年窪地を耕し、愛する人との出会い別れの後、花壇が姿を表し始めた。 そうして高齢者となり、生き延びるための希望の海に若い理解者、友人らとやって来たのだ。 浜では折しも女たちの踊りが始まる。篝火に照らされ横笛だけの無言のおとなしい、何かに耐えるような、長い歳月を物語るような踊りを見つめる李さんの目に涙が浮かび流れていく。 次章では美しい谷川の釣りやキャンプの様子が描かれる。林業に従事した父が僕に語った、涙を流す木、ブナの原生林、渓流の自然描写は爽やかな一陣の風だ。 過激な行動に出た自然保護活動家らしき品川ナンバーの男と親しくなる李さんが示す友情はぼくら以外では珍しい出来事で、その恩恵に被れるのは誠に選ばれた人、というべきか。 李さんの弛まない働きでお花畑は見事に出来上がっていたことに息を呑んだ三人は、庭にデザインを施していく。 しかし窪は李さんの土地ではなく村の入会地、コモンスペースだ。誰のものでもないが誰が使っても良い場所。それを李さんと三人は村人が誰でも寄れるお花の溢れる公園にしようと画策する。 偏狭な村人がそれを受容するかどうか。 入会地と道路を結ぶ歩道もないのだ。 問題解決には、法も感情も歴史も複雑に絡む。まして土地の問題は大きいが、三人は寄り合っては知恵を磨く。 リレーションの良さは何といってとも、李さんという中心があった上で同じ体験を育んだ幼馴染であることが大きい。それぞれの個性も伸びやかだ。 そして公園の公開に、三人はぼくの妹も加わり、長らく廃れていた鹿踊りを復活させるのだ。 その踊りは、涙ぐむ目と名づけた、目をデザインした花壇の周りで篝火を焚いて演じられる。 いつかの浜の李さんの涙であり、森や谷に生きる山女や樹木の涙であり、人と人を隔てる無言の一瞥の毒への公子親子の慟哭の涙を鎮める奉納舞でもあるのだ。 鹿踊りの練習を始めた三人に先ず興味を寄せたのが子どもたちであったことが素晴らしい。 大人が夢中になって何かやっている。一体何が始まるのか、ワクワクするのはいつの時代も垣根のない子どもらなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.09.18 10:33:53
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