バッハはいつもわたしたちのそばに〜受難週の「バッハへの旅」で思う
前のブログでも書きましたが、今月催行した「バッハへの旅」は、受難週に合わせて、バッハゆかりの地で受難曲を聴くことをハイライトにした企画でした(プラス、宗教改革500周年なので、ドイツの「ルターの街」と言われている4つの街、アイゼナッハ、アイスレーベン、エルフルト、ヴィッテンベルク〜をめぐりました)。 ここでは、合計4回鑑賞した受難曲について、書こうと思います。演奏がどうこう、ということを超えて、とても興味深い体験だったからです。 復活祭の前の金曜日、イエスが受難したとされる聖金曜日を頂点に、「受難週」と呼ばれる復活祭の前の時期には、とくにルター派の信仰がある地域を中心に、バッハの受難曲がさかんに演奏されます。とくに「バッハへの旅」で訪れる地域は、ルター派の本丸のような地域なので、小さな街の教会でも、「マタイ」や「ヨハネ」をやっているのがこの時期。ほんとうに、教会から、音楽が溢れ出てくるように「受難曲」が鳴っている、という感じなのです。復活祭とともにそれがさあっと終わり、「復活祭オラトリオ」や、復活祭にちなんだカンタータと入れ替わります。教会音楽は「時期もの」。受難曲も時期もの。そう痛感する季節です。受難曲とはほんらいそういうもので、1年を通じでやるものではないのです。1年を通じてやるなら、時期を問わない「ロ短調ミサ曲」がふさわしいでしょう。 そんなわけで、この時期にバッハの街を訪れてバッハの受難曲を聴くのは、日本ではなかなかわからない季節と教会音楽との関係を味あわせてくれる、貴重な体験なのです。 今回、ツアー組み込みのバッハの「受難曲」は2回。ライプツィヒ、聖トーマス教会で、トーマス合唱団とゲヴァントハウス管弦楽団による「ヨハネ」、アルンシュタット、バッハ教会で、今注目のイギリスのバロック団体、ソロモンズ・バロック・コレクティヴによる「ヨハネ」です。さらにドレスデンに足を延ばす13日コースがあり、そこでは聖十字架教会で「マタイ」を聴きました。加えて、これは別手配でしたが、ヴァイマールの市立教会で「ヨハネ」を聴きました。つまり合計4回受難曲を聞いたわけです。とくに3回あった「ヨハネ」は、それぞれまったく違う演奏で、忘れられない貴重な体験になりました。 出かける前に楽しみにしていたのは、「ソロモンズ・ノット」の「ヨハネ」です。この団体、まだ設立されて間もないのですが、少数精鋭の団体で(歌手は各パート2名ずつの合計8名)、指揮者をおかず(バスのジョナサン・セールズが一応仕切っているらしい)、非常に劇的にやるということを事前にきいていました。一部のマニアが注目している団体だとも。 なるほど、かなりドラマティックな演奏でした。まずは全員が暗譜。曲が体にはいっているせいでしょうか、かなり演技っぽい身振りがつきます。歌も、ノンヴィブラートですが、表情は劇的。さらに、エヴァンゲリストは2人のテノールが交互につとめます(第1部の前半と後半、第2部の前半と後半、というように)。その2人がテノールのアリアも分担。(まあ「ヨハネ」はアリアは少ないですが)。此の手の合唱団(といえるのか。。。)によくあるように、それぞれがソリスト級で、まあ、スーパーソリスト合唱団。なので、イエスの刑が確定する前後のいちばんの緊迫場面の迫力が凄かった。 楽器(ピリオド)も小編成。各パート2人かひとり。低音は鍵盤楽器のほかにバスーンが加わっていました。 受難曲の前にはバッハのオルガン前奏曲が、締めには16世紀のガルスというひとのモテットが置かれていましたが、これはおそらく、初演当時に従った措置だと思います。まあ、ほんとうに「今時」の演奏、ピリオド演奏がこれだけ盛んになっている今だからこそ、出てきた演奏といえるでしょう。 それに引き換え、聖トーマス教会の「ヨハネ」は覇気に欠けました。伝統的な少年合唱団だからいつも通りの、ということだけではない、芯のない、とらえどころのない演奏のように感じられたのです。これはおそらく指揮者の責任でしょう。聖トーマス教会合唱団、もっとうまいはず。ところどころ不安定ですらあったのは指揮するカントール(教会合唱団指揮者)の統率力が欠けていたということではないでしょうか。 翌日、ドレスデンで聴いた聖十字架教会合唱団(とドレスデンフィル)の「マタイ」は、この教会のカントールのローデリヒ・クライレの、作品を手中にしている感のある悠然とした音楽に導かれ、「マタイ」の音楽の美しさをじっくり味わえましたので、やはりカントールの実力の差だと思います。合唱団の実力にはほとんど差がないと思いますので。 とはいえ、実は、いちばん面白かった、というか、いちばん興味深い体験だったのは、ヴァイマールの市立教会の「ヨハネ」でした。 ここでも、指揮は教会の「カントール」、合唱団は「ヴァイマール・バッハ合唱団」。これは地元のアマチュアでしょう。プログラムに、毎週月曜日、カントール(ヨハネス・クラインユングというひと)の指揮で練習しています、とありましたので。オーケストラはやはりピリオドで、「アンサンブル・ホーフムジーク・ヴァイマール」という団体でした。メンバーはプロのようですが、よくあるように、たぶん演奏会のあるときに臨時に編成される団体ではないでしょうか。ソリストは若手のプロが呼ばれているようでした。 これが、よかったんです。地元のアマチュアの演奏だからと、期待していなかった分(ごめんなさい)、感動も大きかった。 まず、合唱が迫力がありました。老若男女入り混じり、かなりの人数なのですが、非常にまとまりがいい。自分たちが何をやっているか、何を歌っているかきちんと把握している。体で感得しているような感じなのです。たぶん小さい頃から教会で賛美歌を歌っていた方達なんだろう、毎年教会で、受難曲を体験してきた方達なんだろうと思います。「ヨハネ」には、彼らが普段歌っている賛美歌=コラール、がたくさん入っています(もちろん「マタイ」にも、カンタータにも)。いつも礼拝で歌う歌を歌っているわけです。そこはもう、根本的に違う。 そしてカントールが、彼らをまとめて、ここはこう、という方向性をきちんと示している。だから歌に確信があるのです。これは、なかなか真似できるものではありません。「ヨハネ」は「マタイ」に比べて合唱の比重が高い作品ですから、よけい合唱団の力を思い知らされます。 (音楽の作りは違いますが、バッハコレギウムジャパンの演奏にも、確信的なものを感じます。これは指揮の鈴木雅明さんの力のように思います。もちろん細かい技術的なことは、バッハコレギウムのほうが上ですが) ソリストもオーケストラも満足のいくできばえだったと思いますが、何より合唱の素晴らしさに魂を奪われてしまいました。同時につくづく、バッハは地に足がついている音楽なのだ、と思わされました。クラシック音楽をいくら輸入しても、教会音楽、とくにこのような日常的な音楽は、結局、日本人からいちばん遠い。それは致し方のないことですが、だからこそ、難しいとかわかりにくいとか思われてしまう。あるいは不必要に崇められてしまう(かって「マタイ受難曲」は、クラシック音楽の「奥の院」のように言われていた時代がありました)。まったくそうではない、いちばん、地に足がついた音楽なのに。 地に足がついた音楽。ツアーの最後に、ドレスデンの聖母教会で、今一度それを確認する機会がありました。復活祭の日曜日当日、聖母教会の復活祭の礼拝で鳴り響いた音楽は、バッハの「復活祭オラトリオ」。時間の関係か、全曲ではありませんでしたが、あいだに説教や賛美歌や祈りをはさむ伝統的な礼拝のなかで、バッハの音楽が紡がれる。生活に溶け込んだ音楽。バッハは、ほんとうに身近な音楽なのです。 バッハの受難曲は「劇的」だというけれど、オペラの、非日常の劇的とは違う。その多くは、礼拝で、いつも歌っている歌(=賛美歌=コラール)、から構成されているのです。そこに、受難の物語の音楽表現が加わっているだけ、なのです。 いつもそばにいてくれる音楽。それこそがバッハの音楽であり、いくら複雑であっても劇的であっても、彼の音楽は最終的に、心を鎮めてくれる音楽なのです。