418.海軍駐在武官(18) 山本だ。しっかり勉強しろ。それからアメリカの表と裏をよく見ておけ
【山口多聞海軍中将】(カモメ)次は、山口多聞(やまぐち・たもん)海軍中将ですね。山口中将は、明治二十五年八月十七日、東京市生まれ。海軍兵学校(四〇期次席)卒。プリンストン大学卒。海軍大学校(二四首席)卒。大正十年二月米国駐在員。昭和四年十一月ロンドン会議全権随員。昭和七年十一月海軍大学校教官。十二月大佐(四十歳)。(ウツボ)昭和九年六月一日在米国大使館附武官(四十二歳)。昭和十一年十二月巡洋艦「五十鈴」艦長。昭和十二年十二月戦艦「伊勢」艦長。昭和十三年十一月少将。十二月第五艦隊参謀長。(カモメ)昭和十五年一月第一連合航空隊司令官。十一月第二航空戦隊司令官。昭和十七年六月五日ミッドウェイ海戦で戦死、海軍中将、功一級金鵄勲章。享年四十九歳。(ウツボ)「山口多聞」(松田十刻・学習研究社)によると、大正十年二月、山口多聞大尉は米国駐在員を命じられた。二十九歳だった。(カモメ)このときの駐米大使は幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう・大阪・東京帝国大学法科大学卒・外務次官・駐米大使・ワシントン会議全権・外務大臣・内閣総理大臣臨時代理・戦後内閣総理大臣・衆議院議長)でしたね。(ウツボ)そうだね。さて、大使館には三十七歳の海軍中佐がいた。小柄だが筋肉質で、日本海海戦で二本の指を失った左手を隠そうともしなかった。いかめしそうな面構えだった。眼が大きく、相手の心中を射貫くような視線だった。(カモメ)後に連合艦隊司令長官になり真珠湾攻撃を行った、山本五十六中佐ですね。(ウツボ)「山口であります」と挨拶すると、「山本だ。しっかり勉強しろ。それからアメリカの表と裏をよく見ておけ」と言った。山口大尉が緊張していると、山本中佐は柔和な顔になった。笑うとなんともいえないとぼけた魅力があった。包容力があり、身体は小さいが懐は大きかったのだね。(カモメ)大正八年四月に山本少佐は米国駐在を命じられ、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーヴァード大学で語学を研修していました。(ウツボ)山口大尉が米国に来たとき、山本中佐(大正八年十二月に昇進)は大使館で米国の石油事情の調査研究に従事していた。山本中佐は山口大尉に次のように言った。(カモメ)読んでみます。「日本丸という船は、アメリカから買った石油で動いている。アメリカがつむじを曲げ、石油は一滴もやらんと言い出したら、日本丸はたちまち沈没してしまう。そんな単純なことさえ知らない連中がいるんだからな。困ったものだ」。(ウツボ)日本には石油がない。山口大尉はその現実をしっかり受け止めた。山本中佐は大正十年五月五日に帰朝命令を受け、ワシントンを去っていった。(カモメ)山口大尉の駐在の目的は、国情視察とプリンストン大学での語学研修でした。プリンストン大学はイギリス植民地時代の一七四六年に創設されたのですね。(ウツボ)そうだね。プリンストンは学生街だったが、学生向けのアパートは少なく、ほとんど全員が寄宿舎に入った。山口大尉も若い青年に交じって寄宿舎生活を送った。(カモメ)アメリカ人と付き合ってみると、日本にいたときの先入観がどんどん崩れていったのです。背が高くてたくましく、スポーツ好きでユーモアにあふれ、自助独立の精神がありました。(ウツボ)教授陣や学生のレベルも高かった。学生の自主性を重んじる自由な気風もあった。「こいつらと喧嘩してもかなわねえや」。山口大尉はアメリカのパワーの源を見る思いだった。(カモメ)山口大尉の駐米中、ワシントン会議が開催されました。アメリカ大統領ハーディングの提唱により実現したもので、軍縮と太平洋・極東安全問題について協議されることになりました。(ウツボ)会議は大正十年十一月十二日の第一回総会で幕開けした。アメリカ全権のヒューズ国務長官は議長に選出されるなり、自国の軍縮案をぶちあげて会場をあっと言わせた。(カモメ)ヒューズは主力艦の現有勢力(米・英約五十万トン、日本約三十万トン)に鑑み【五・五・三】の割合で保有率を決めたいと訴えたのです。(ウツボ)首席随員・加藤寛治(かとう・ひろはる)海軍中将(福井・海兵一八首席・在英国大使館附武官・戦艦「比叡」艦長・少将・砲術学校長・海軍大学校長・中将・ワシントン会議主席随員・軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・高等技術会議議長・後備約・昭和十四年死去)は「対米七割」は絶対に譲れないと猛反対した。