427.陸軍大学校首席列伝(7)児玉大臣は尾野少佐を大本営参謀に任命、樺太占領計画を作らせた
【九期首席・鋳方徳蔵中将(陸士旧八)】(カモメ)次は、九期首席の鋳方徳蔵(いがた・とくぞう)中将ですね。陸軍大学校九期は明治二十三年十一月二十三日入学、明治二十六年十一月三十日卒業。入学者数二十名、卒業者数十四名。福田雅太郎大将、町田経宇大将、白井二郎中将、小池安之中将、高橋義章中将などがいます。(ウツボ)鋳方徳蔵は、元治元年九月生まれ。熊本県出身。陸軍士官学校(旧八期)卒業後、明治十九年六月二十五日陸軍砲兵少尉。明治二十六年十一月陸軍大学校(九期)を首席で卒業(砲兵大尉)、第三師団参謀。(カモメ)明治三十七年、鋳方徳蔵中佐は日露戦争に大本営陸軍部参謀として出征、大佐に昇進し、鴨緑江軍司令部の砲兵部長に任命されました。(ウツボ)その後、明治三十八年一月から三十九年一月まで、鴨緑江軍参謀副長を勤めた。(カモメ)昭和五十五年に公開された東映映画「二百三高地」(笠原和夫脚本・山本直純音楽監督・舛田利雄監督)では、鋳方徳蔵中佐は大本営参謀として登場しています。(ウツボ)配役は土山登士幸(つちやま・としゆき)が鋳方中佐を演じている。土山登士幸は「女囚さそり」「仁義の墓場」「従軍慰安婦」「網走番外地~荒野の対決」「トラック野郎~一番星北へ帰る」「空手バカ一代」などの映画に出演している俳優だね。(カモメ)その後、鋳方大佐は明治四十二年八月野砲兵第二連隊長。明治四十四年九月少将、佐世保要塞司令官。大正元年十二月野戦砲兵第二旅団長。そして大正四年五月に由良要塞司令官に補任されています。(ウツボ)その翌年の、大正五年五月に中将に昇進している。大正七年七月待命。大正八年一月予備役。退役後、大正十年十月熊本電車株式会社社長に就任している。昭和八年十二月二十五日死去。享年七十歳。【一〇期首席・尾野実信大将(陸士旧一〇)】(カモメ)次は、一〇期首席の尾野実信(おの・みのぶ)大将ですね。陸軍大学校一〇期は明治二十四年十一月入学、明治二十七年七月二十四日中退、明治二十九年二月二十九日復校、明治二十九年三月十一日卒業。入学者数二十名、卒業者数十七名。山田隆一中将、古海巌潮中将、山田良水中上などがいます。(ウツボ)尾野実信は、慶応元年十月十五日(一八六五年十二月二日)生まれ。福岡県出身。黒田藩士・尾野実治の三男。(カモメ)尾野実信の娘は武藤章(むとう・あきら)中将(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・参謀本部兵站班長・参謀本部第四班長・中佐・ヨーロッパ出張・歩兵第一連隊附・軍務局軍事課高級課員・関東軍第二課長・大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・少将・軍務局調査部長・中将・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・A級戦犯で刑死)に嫁いでいますね。(ウツボ)明治二十一年七月陸軍士官学校卒業(旧一〇期・歩兵科次席)、歩兵少尉、歩兵第一四連隊小隊長。(カモメ)明治二十四年に陸軍大学校に入校しますが、陸大は日清戦争のため明治二十七年十月に閉鎖されました。(ウツボ)そうだね。尾野実信中尉は日清戦争に出征、歩兵第一四連隊中隊長、歩兵第一二旅団副官を務めた。その後、昭和二十九年二月に再開した陸大に復学した。(カモメ)明治二十九年三月尾野実信中尉は陸軍大学校(一〇期)を首席で卒業、大尉に昇進し参謀本部部員となりました。(ウツボ)その後、ドイツに軍事研究のため駐在(三年間)。ドイツ滞在中に少佐に進級した。明治三十五年に帰国した尾野実信少佐は参謀本部部員となり中部都督部参謀を兼任した。(カモメ)その秀才ぶりを当時の陸軍大臣・児玉源太郎(こだま・げんたろう)中将(山口・参謀本部第一局長・陸軍大学校長・少将・陸軍次官兼軍務局長・陸軍省法務部長・臨時台湾電信建設部長・男爵・中将・第三師団長・台湾総督・陸軍大臣・勲一等旭日大綬章・内務大臣・文部大臣・参謀本部次長・大将・満州軍総参謀長・参謀次長・勲一等旭日桐花大綬章・参謀総長・子爵・南満州鉄道創立委員長・脳溢血で急死・正二位。功一級)が認めたのです。(ウツボ)日露戦争開戦直前、児玉大臣は尾野少佐を大本営参謀に任命、樺太占領計画を作らせた。尾野少佐は、野戦軍に影響を与えずに後備の部隊を使用して目的を達成させる案を練り上げた。(カモメ)実際に、日本海海戦後、講和会議を有利に運ぶために、樺太占領作戦は実施され、新編成の独立第一三師団が海を渡り、作戦を行い、樺太を平定したのですね。(ウツボ)そうだね。明治三十七年尾野実信少佐は、日露戦争に満州軍総司令官・大山巌(おおやま・いわお)元帥(鹿児島・ジュネーブ留学・陸軍卿・陸軍大臣・大将・日清戦争では第二軍司令官・日露戦争では元帥・満州軍総司令官・公爵)の副官として出征した。