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2012年09月08日
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カテゴリ:旅日記(中国)
続いて行ったのは、三原歴史民俗資料館(場所はこちら)。

三原城に関する資料とか、展示とかないかな~と思って。
それに、ここにはまだ三原城が海に面してた頃の古写真があるって事だったし。

入場は無料だけど、写真撮影は禁止。


2階の展示室に上がると、ナウマンゾウから始まる三原の歴史について
解説があり、展示品が並べられていた。

展示室は3室だったかな、そんなに広くはない。

あ、ナウマンゾウは、干拓事業の際に歯とかが見つかったそうでね。
へ~え、こんなとこにいたのかあ?ってちょっとびっくり。


展示品の中で古建築好きの私の目をひくのは、やっぱり瓦とかの建築素材。

軒丸瓦は家紋とか個別のデザインを採用してるところもあるけど、
一般的には巴紋が多い。
普通の人は、あんまり瓦の紋とか気にしないかもしれないけど。

巴紋が普及するのは、平安時代以降。
それ以前は、蓮花弁だった。

奈良とか、特に古い歴史でこってりしてるような所以外では、
普段蓮弁の軒丸瓦を目にすることはあまりない。

そんな古いタイプの蓮華文軒丸瓦、それも白鳳期のものが数点展示されていた。
うち1点は、佛通寺旧蔵の県内最古の瓦。
佛通寺も、名前を覚えててくれると嬉しいな音符


 【広島県域は、西部に安芸国が、東部に備後国が置かれ、国のもとには郡(こおり)
  里(のち郷-さとごう-にあらためる)の行政単位が設けられ、三原地域は東部に
  備後国御調(みつき)、柞原(みはら)郷が、西部に安芸国沼田郡沼田郷、船木郷、
  安直(あちか)郷、真良(しんら)郷、梨葉(なしは)郷が設置されました。

  (中略)古代山陽道には、約10km毎に駅家がおかれ、三原市域には真良駅と
  梨葉駅が設けられました。
  また瀬戸内海には航路がひらかれ、万葉集に記された長井浦(ながいのうら)は
  三原市糸崎が有力視されています。】
  (展示室解説より)


三原の地名については、旅の前に資料を作っていた時にちょっと触れて、
興味を持ってたんだ。

歴史の好きな皆様ならよくご存知のことと思いますが、
地名ってのはそれ単独で様々な歴史を教えてくれるからね。

だから、市町村合併とかで古い地名がなくなって
なんの愛着も湧かないような語呂だけ綺麗な地名が付けられてしまうのは、
とても悲しいこと。

では、「三原」にはどんな歴史が含まれているのでしょう?



解説にある「柞原(みはら)」の地名、これは承平年間(931~938年)に
編纂された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に現れるもの。

この中では「みはら」と読んでいたみたいだけど、「柞」と「原」の字を
合わせると、古語では本来「ははそ・はら」という読みになるんだと。

「柞」は「ははそ」と読み、コナラやクヌギなどのブナ科の樹木を指す。
それに「原」が付いて、「ははその生えた原」という意味になるらしい。

「ははそ」の他に、「柞」の字は「いすのき」とも読み、マンサク科の樹木のことを指す。
イスノキは梼(ゆす)の木ともいい、そちらを採用すると「柞原」は
「ゆすはら」とか「ゆずはら」という読みもアリなのかも・・・

どっちにしても、木の多く茂る原を示す地名が「柞原」。


少し時代が下った13世紀末には、「みはら」じゃなく「みわら」と
読んだ記録が残っている。


さらに時代が下った南北朝時代の観応元年(1350)、
「三原」の文字が文献上で初めて顔を出す。
そして、明治以前までは「みわら」と読んでいたそうな。

てことは~、今は「みはら」と言ってるけど、
隆景ちゃんは「みわら」と言っていたのか!

なら、居城も「みはらじょう」じゃなくて「みわらじょう」だよな・・・

という流れから、「三原」と書いててもわたくしはひそかに「みわら」と
古い呼び名で読んでおります。


実際に「三原」の表記がいつからなのかはわかっていないけど、
「三原」の地名の由来としては

  にし原、あく原、こもが原の三つの原に起源とす(室町末期の『三好下野入道口伝』)
  湧原、駒ケ原、小西原の三つの原から出る川が海に注ぐ所とす(江戸末期の『三原志稿』)

と書かれており、にし原は小西原、あく原は湧原、こもが原は駒ヶ原と
それぞれ対応し、3つの川の流れ出る場所にできた3つの原から
「三原」としたという説がある。

「原」って言われると、やっぱりススキとかマコモとかの生い茂る
平地を想像するけどね、ただ、現在の三原市の市街地のかなりの部分は埋め立て。

戦国期頃までは、今よりもず~っと内陸まで海が入り込んで、
大きな入り江を形成していた。

三原城は島をつないで造られたものというから、
河口に島は確かにあったんでしょうけど、なんかあんまり「原」って感じじゃない。

それよりは、山際まで海が迫っていた当時の地形から考えると、
「ははそ」あるいは「いすのき」の茂る山のある場所、って言った方が
しっくり来る気がするな。


このあたりは、三原城のスタートを考えた時に
どうも私にはイマイチ合点のいかない事があるので、
前フリとしてちょっと書かせていただきました。
続きは三原城のところでね。



あと、書紀での沼田(ぬた)の記述についても紹介されてた。


 『日本書紀 巻11  仁徳天皇38年7月条』より

  天皇・皇后がお揃いで避暑に来ていた時のこと。
  菟餓野(とがの)から毎晩鹿の声が聞こえてきた。

  涼やかで美しいその声を遠くに聴いて、天皇は心を慰められ、
  バカンスを思いっきり堪能していた。

  そんな風に毎日を過ごしていたのだが、ある夜は聞きなれた鹿の声が聞こえない。

  「今宵はあの声が聞こえないのう・・・
   どうしたのであろうか・・・」

  と淋しげに皇后に語りかけながら、その夜は静かにふけていった。


  翌日。
  猪名郡の県(あがた)の佐伯部がやって来て、
  苞苴(おおにえ。土地のものの献上品のこと)を天皇に献上した。

  「これは何じゃ?」
  「はいっ、鹿の肉です音符
  「・・・どこの鹿、か?」
  「はいっ、菟餓野ですっ!!ちょき
  「・・・・・・!!!」

  (黙っていれば居場所も見つからずに済んだものを、
  鳴くから探されて見つかって、このような肉の塊になってしまったのだ・・・
  仕方のないこととはいえ、佐伯部を恨めしく思う気持ちは
  朕にもどうすることもできない・・・)


  もんもんとした挙句、ついに天皇は御無体な命を下す。

  「以後、佐伯部は皇居に近づけぬよーに!!」

  こうして哀れな佐伯部さんが左遷された先が、安芸の淳田(ぬた)。
  これをもって淳田佐伯部の祖となった・・・チャンチャン音符


いんや~、佐伯部さん、運悪すぎ泣き笑い

仁徳天皇っていえば、あの陵(みささぎ)で名前だけは大抵の日本人が知ってるよな。
「仁徳」の諡号(しごう)が表す通り、仁政を敷いたとされてはいるものの、
一方では女好きで、奥さんとの間にドロドロなドラマもあった人らしい。

上の話も、やたら人間臭いしね(笑)。

ところで、有名な仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)という。
これは、陵の工事中に鹿が飛び込んできてその場でばったり死んでしまった。
死んだ鹿の耳の中からモズ(百舌鳥)が現れたという、
冗談みたいなエピソードに由来するそうな。

鹿の耳からモズって・・・手品かい泣き笑い

という訳で、仁徳天皇は鹿のエピソードを2つお持ちの天皇様だそうです。
なんか、面白い人だ・・・


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最終更新日  2012年09月09日 17時48分17秒
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