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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年05月01日
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カテゴリ:城(中国)
まずは、搦手口にある看板の解説から。

 【高山城と小早川隆景公の歴史

  ○鎌倉時代の初期、小早川4代小早川茂平築城。
  ○1400年頃大火に遭う。
  ○毛利元就の三男が竹原小早川の養子となり、小早川隆景を名乗る。
  ○1551年本家沼田の小早川家をも継ぎ、高山城へ入る。
  ○1552年17代小早川隆景本城を新高山城へ移す。
  ○築城してからこの間沼田小早川惣家の本城として約350年。

  ○1567年三原城を築き始め、1582年隆景三原に移る。
  ○9郭と多くの出丸を持ち、中央の低地を挟んで2つの連郭式縄張の山城である。
  ○高さ291m、広さ41万平方メートル、全国でも5指に入る規模。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換。)



う~ん、なかなか大胆に言い切ってるなあ(笑)。
まあ、簡単に概略を述べるにはある程度は割り切らないといけないしね。


さて、まずは歴史の話から始めます。
新高山城シリーズでは隆景に限定して話を進めましたが、
こちらでは逆に隆景以外の小早川氏の話が中心となりますので、ご了承ください。

以前、雑談「小早川隆景の知名度」で隆景のビミョ~な知名度について書いたけど、
まあ隆景の名前くらいは知ってる人はそれなりにはいる。
が、隆景以前の小早川氏に関心がある人となると、
間違いなく格段に数は減る。

私ももちろん小早川氏については隆景から入ってるんだけど、
庶家も多いし当初思ってたよりなかなかの家柄で、
面白い話なんかも色々あるので、一般の歴史ファンの中ではあまり紹介されることのない
隆景以前の小早川氏について、古い時代を中心に少し書いていきたいと思います。



初期の小早川氏については、「三原編(2)」で簡単に紹介していますが、
話はもうちょっとさかのぼって、沼田(ぬた)庄の歴史について。


平安時代頃に大フィーバーした荘園制については、
誰しも教科書で習いますが、あれってよくわからないよね~。

今回、沼田庄のことを書くにあたって少し勉強し直してみたら、
案外複雑なシステムらしくてね~。
まあ、ここでは簡単に書きますね。


なんで戦国の国人のことを書くのに、平安の荘園制から始めるのかって?
そりゃアナタ・・・
小早川氏が鎌倉の御家人だからですよ。
回りくどい説明にはなるけど、この背景も大事なのだ。

それに、こんなことまで書くのは国人衆の中では小早川氏だけになると思うけど、
安芸や備後にも多くいる西遷御家人のほとんどは同じ環境に置かれて、
似たような発展を遂げたと思われるので、そういう点でも
一度は書かなければならないことだと思ってるのでね。



で、治承・寿永の乱・・・いわゆる源平合戦のあと、
多くの御家人が西国に地頭として任じられた。
平氏の力が強かった西国に勢力を伸ばすため、そして西国武士の抑えとして。

そのうち、北条氏の力が強くなってくるなどの背景もあり、
本拠を西国に移す者が増えてきた。
ただ、地頭に任じられたからといって初めから順調だった訳じゃない。
なんでか?



そこで荘園制。
沼田荘と荘園制のシステムをおおざっぱな図にすると、こんな感じになる↓。


    沼田庄のシステム-2



荘園制も、初期の形態から段々と本格的荘園へと発展していったらしいんだけど、
沼田荘の場合は本格的荘園のうちの寄進系荘園にあたるんだそうな。
自力で開発した地元の領主からスタートして、
どんどん権勢家へ寄進してくってパターンね。

荘園領主のうち、最高位の者を「本家」という。
本家・領家のうち、実権を握った人のことを、「本所」という。
沼田荘では蓮華王院がこれにあたる。

現地で実際に経営にあたるのが、荘官。
本所から派遣された預所(あずかりどころ)と共に、荘園を支配する。

領家は平家とされてるけど、別にはっきりそう書いたものが残っている訳ではなく、
平氏が滅んだ後に沼田荘が平家没管領となっていることから、
平氏が領家だろうと見られている。


上の図には書かなかったけど、沼田荘は平氏から院または皇族へ寄進されたようで、
最終的に後白河院が蓮華王院を建立する際に沼田荘を寄進したという流れらしい。
蓮華王院は、「三十三間堂」といえば誰でもわかるかな。



平氏に従った沼田氏が滅んだあと、領家は後鳥羽院から堀川天皇へと移っていったが、
承久の乱で院方が負けたことにより没収。

承久の乱の情報を幕府にチクって幕府方の勝利に貢献した、
公家の西園寺公経(きんつね)に領家職が引き継がれた。
以後は西園寺家が領家職を続け、鎌倉時代の末には沼田新荘の椋梨子と和木が、
西園寺家の娘で亀山院の妃となった女性に贈られている。

小早川氏は、こういう支配機構の中に地頭として入ってきた。



「地頭」というと、守護とともに鎌倉幕府が新しく作ったイメージがあるけど、
実はもっと前からあったんだそうな。
たとえば、安芸では平氏も地頭の任命をしている。

ただし、それらはあくまで私的なもので、
朝廷からの勅許を得ることで頼朝は公的な性格を与えた。

晴れて公権力の一部となった地頭だけど、
私的なものである荘園制はまだ生きてる。
教科書では(たぶん)習わないけど、荘園のシステムって結構長く続いたってんだから、
オドロキだよね。

荘園が完全に解体されたのは、太閤検地。
16世紀の終わりですよ。
ので、小早川氏が沼田に移ってきた頃は、荘園制バリバリの時期だった。



幕府から正式に任命された地頭といっても、
こうしたシステムの中じゃちょいと肩身が狭い。

あまりいい例じゃないけど、まあ現代で例えるなら、
ぽっと出の県知事や大臣が、議会とはソリが合わないし官僚は言うこと聞かないし・・・
で苦労してるみたいな(笑)。


いい例じゃないというのには訳がある。

「地頭に任じられた」というと、イコール領地をもらったのかと
最初は思ってたんだけど、そうじゃないらしい。
あくまで、所領の管理と支配を幕府が認めただけのことなんだと。
つまり、土地システムは依然として荘園制のままだったというのだ。

平氏が滅んだからといって、きれいに支配者が入れ替わった訳じゃない。
土地を実質的に支配する領家・本家は力を保ったまま。


荘園制のヒエラルキーの中では、権勢家に保護してもらうかわりに
当然上位者へ年貢を納める。

教科書で習う鎌倉幕府のキーワードのひとつに、
「御成敗式目」があるのは皆様覚えておられると思いますが、
この式目の中にも、ちゃんと第5条に

「年貢は本所にきちんと正しく納めてね。
滞納して本所に要求された場合は、それに従ってね。
もし年貢が足りなくて納めきれない場合でも、
3年以内には本所に納めてね。
これを守れなかったら、地頭を解任しちゃうからね。」


と地頭に本所への納税の義務があることが定められているのだ。

実際、地頭と領家・本所とのトラブルは土地や年貢に関するものが多かった。
小早川氏でもこうした問題は起きている。


最初の武家政権だからね。
人は時代の観念そのものから抜け出すことはなかなか難しいし、
社会の仕組みそのものを変えるってことは大変な事なんだな~と
これを知った時、思ったね。

土地を所有して力はあるけどいわば私的なものである領家・本家。
その土地のトップではないけど公権力に立場を裏打ちされた地頭。
二重支配のこの時代の枠組みというのは、想像以上に複雑で難しい。


 
    

   小早川分布図


さて、鎌倉初期の土地システムについてはこのくらいにして、
上の図は小早川庶家の分布図です。

新高山城とか頭崎城シリーズを読んでくださった方には、
椋梨とか梨子羽(なしわ)とか船木とか、ちょっと覚えのある名前も
ちらほらあることでしょう。 
カッコ内は、現在の地名ね。


小早川氏が沼田荘に移ってきた時期については、判然としない。
が、幕府からの安堵状からして、4代茂平の代には下向していただろうと
推測されている。(初期の系図はこちら

系図のリンク先(「三原編(2)」)には初期の流れも書いたけど、
沼田荘を継いだのが平賀義信の子じゃなかったら、
あるいは沼田荘も没収されてたかもしれないね。
和田・三浦・梶原などなど、有力御家人つぶしもかなりエグイものがあるからね。

ま、ともかくここでは茂平が沼田に引っ越してきたことにしましょう。


茂平が来た頃、沼田荘の中心は梨子羽あたりだった。
このあたりは古墳やら古い寺院も多く、
出土品から推測するに、かなり古い時期から沼田と畿内との関わりは深かったらしい。
地理的な問題や土壌など様々な面から、有利な土地だったんでしょうね。

が、梨子羽の地には在地の領主などの勢力が強かったため、
茂平は梨子羽を避けて、少し離れた古高山の麓付近に身を置いた。

といっても、すぐ高山城を築いた訳ではなく、
梨子羽より東のあたりに居館を置いた。
居館の場所についてはまだ結論を見ていないが、
現在のところ2つ候補地が上がっている。

本郷村の「国郡志書帳」には、小早川初代の土肥實平が文治3年(1187)
西国探題としてやってきて高山に居住したという記述があるが、
当時はまだ山の麓に住む時代であることから、古高山ではなく
その麓に住んだんだろうと見られている。


その頃、地頭の屋敷は「館(屋形)」と呼ばれ、居館の周囲に堀や土塁をめぐらせて
館の防御としたため、「堀ノ内」とか「堀内」「土居」と呼ばれた。

居館は非課税。
また、「門田(かどた)」「佃(つくだ)」などと呼ばれる直営地が認められており、
これも屋敷とともに無年貢地とされた。
つまり、地頭の私有地。これが地頭の財源になる。

この門田を屋敷の周囲や付近に置いて、
段々とその周囲も開墾するなどして土地を取り込み、
少しずつ領内における勢力を伸ばしていった。

その過程において、当然のことながら領家とのトラブルも起こり、
沼田氏の遺産である梨子羽の門田を継いだ茂平の娘が領家に訴えられて
裁判沙汰になった記録などが残っている。

新参者は苦労するのう~(笑)。
でもしぶとく現地にくい込んでいって、発展していく訳だけど。

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最終更新日  2013年05月02日 23時48分12秒
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