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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月30日
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カテゴリ:城(中国)
ふ~、長すぎた歴バナもそろそろゴールが見えてきました。

ここまであちこち回り道なぞしてもいますが、
いちおう時系列にはきてます(笑)。

杉原盛重が永禄7年(1564)頃に伯耆尾高城主になったところまで書きましたが、
今回はその4年後、永禄11年(1568)の話になります。



さて、今回の主役、藤井皓玄(こうげん)さん。

ここまでを地道に読んできて下さった方には、
名前だけインプットされてたかもしれませんね。

私が現地でコピーさせてもらった資料の中の一冊、
『神辺城と藤井皓玄』の中から何度か参考にしてる部分があって、
書名だけ挙げてたからね。

ここまでの話で、山名理興の家老は1番目が杉原興勝で4番目が杉原盛重、
というところまで紹介しましたが、皓玄さんは2番目の家老さんだそうです。
お住まいも当然備後かと思いきや、備中の人らしいです。


藤井氏の所領は、神辺城から近い。
神辺から北東にある現在の高屋町、さらにその北にある芳井町付近一帯に
勢力を持った氏族で、出自についてはいくつかの説があるみたいだけど、
そのうちのひとつが藤原秀郷(ひでさと)の流れを汲むというもの。

ま~た秀郷かよ~!!泣き笑い

もう、過去のシリーズでも秀郷流と称する武家をいくつ書いてきただろう・・・
ホント人気者だよな~。
(秀郷の武勇伝については、「大津編(6)」なぞをご覧ください)

ところがこの藤井さん、秀郷流説の方では結城小山氏の一族だとし、
在地の名を取って藤井を名乗ったとある。
小山氏か・・・秀郷流を名乗るなら、その辺だよな・・・
と思って地図を見てみたら、現在でも栃木県下都賀郡壬生町に
「藤井」という地名がある。

へえ、なんだ。
同じ関東人じゃないか~とちょっと親近感がわいた(←単純)。



藤井氏が備中に移ってきた経緯についてはわかってないらしいが、
『神辺城と藤井皓玄』はさすがに書名に皓玄の名を持ってきているだけあって、
藤井氏について結構詳しく書いてある。

「高山城(2)」で荘園制について簡単に説明しましたが、
戦国期に入ってもまだ荘園制は生きていて、小早川氏が足利義満の口添えで
荘園の年貢を(格安で)請け負って、晴れて沼田荘の一円支配を認められたように、
鎌倉時代には地頭が本家に代わって定額で年貢を請け負う「地頭請」という現象が現れ、
さらに室町期に入ると守護が年貢を請け負う「守護請」が現れる。
まあ、「代理取り立て屋」みたいな・・・泣き笑い

このシステムは、大ざっぱに言って
本家・領家の側からは豊作・不作に関わらず安定した収入が見込めたし、
請負人の側からは荘園制という土地の二重システムの中にあって、
本家・領家の邪魔も入らず現地支配ができるという、
双方にメリットのあるものだった。

ところが、中にはこの代理取り立て屋を現地人が拒むケースがあり、
備中でもそうした土一揆や武力抗争などがあったという。

う~ん・・・
備中の地頭職の変遷までは知らないけど、
小早川領ではそういうトラブルは私の知る限りでは
ほとんどなかった気がするんだけどなあ・・・

守護の入れ替わりとかがあると、そういう事が起こるのかな?
あるいは、茂平以降、現地に何とかして食い込もうと一族が結束した結果、
他の荘園よりは小早川氏の現地支配がうまくいってたって事なのかな?

まあ、小早川氏の場合は茂平が鳥を預かってやったりして
領家である西園寺家にもうまく取り入って・・・あやや、
お付き合いしてたみたいだから、その辺の違いもあるのかもしれないな。
さすが、やり手の本佛様グッド


それで、備中ではかなり力を持った守護代の庄氏に対し、
藤井氏がいた井原荘では村の有力者が団結して代表者を押し立て、
天文8年(1539)にはおそらく本家の京・相国寺へ年貢を収めるのを
やめたという。


 【井原荘を支配していた守護細川氏や守護代荘(庄)氏の勢力が衰え、かつ
  同荘が備後との国境にあった為備後国人衆の勢力に押され支配力が衰弱していった
  時であった。井原荘が自衛力を持ち、惣としての代表者に藤井氏を押立てたと
  思われる。

  これについての史料はないが、このあたりを理解しないと、皓玄があれ程の
  勢力を持ち、又、正霊山城や高屋山城を築いて自分の一族の家城とする事を、
  解釈できない。】
  (『神辺城と藤井皓玄』より。著者名は控えてませんでした。すいません)


・・・要するに、藤井氏に関する史料も相当少ないらしい訳ですが、
それでも皓玄は「備中で知らぬ者とてない武将」なんて風に表現されるくらい
地元では有名な人らしい。

上の引用文にある代表者の藤井氏は、皓玄の父だろうと著者様は推定しておられる。
であれば、「備後国人衆」の中には当然、山名理興も含まれるんだろうな。
ってゆーか、著者様の推定している年代を計算すると、
理興パワーが相当な影響を及ぼしていたとも考えられる。



備中の国人衆については、「吉備路編」を書いた時に少し勉強したっきりだけど、
私は藤井氏のことは知らなかった。
でも、上の説明を見るに、だいぶ後になって地域の代表者となり、
そこから急速に力を付けてきたように見受けられる。

藤井氏の所在が備中の中心部にでもあれば
その勢力も長続きしなかったかもしれないけど、
備後と接する位置にあったのも勢力保持に有利だったかもしれない。

それと、藤井氏の高屋は南北への街道も通る交通の要衝でもあったようなので、
その辺の関係もあったのかもな。
ちなみに、今川了俊の「道ゆきぶり」備後バージョンを
「相方城(2)」で簡単に書いてますが、
おそらく了俊は高屋付近を抜けて神辺へ出たのではないかと思われます。



さて・・・
神辺城に関連して藤井皓玄が出てくる場合、
大抵は山名理興の2番家老だった過去に一瞬触れた上で
すぐ事件の話へ入っていく訳ですが・・・

私もそうしようと思ってはいましたが・・・
あれこれ読んでも、備後って結構わかってない事が多いみたいだし、
私自身も自分の記事に関係する小さな世界しかよく知らない。

そんな状況なので、あらたな疑問が浮かぶたび、
何度も逆戻りしては苦悶する。

「先に勉強しとけよ!」

ってツッコミはごもっともですが、
書きながら考えてる部分もあるので、致し方ありません(←開き直り)。


で、今回あらたにひっかかったのは、「理興の2番家老」という部分。

ここまで紹介したように、筆頭家老は杉原興勝、
次が藤井皓玄で3番目は前後の状況から大江田隼人祐・・・
この大江田さんはどんな人なのか全っ然わかりません。
で、4番目が杉原盛重といわれる。

杉原氏は神辺の西に所領を持つ大きな一族。
だから興勝が筆頭なのはいいとして、次席に備中国人である皓玄が来るのって・・?

神辺から見て東に位置する藤井氏は、東の街道の押さえとして重要で、
『神辺城と藤井皓玄』の解説にあるように、実際大きな力を持った一族で
理興にとっては同盟者として重要な位置付けだったのかな~って思った。


理興が神辺城主になった通説は、何度も書いてるように
天文7年(1538)に大内義隆の命を受けた理興が
神辺城主の山名氏政を追い落としてそのまま城主の座についたというもの。
皓玄は、この山名氏政に仕えていたともいわれる。

『神辺城と藤井皓玄』では、「山名家伝記」という史料の一文を紹介している。
それによると、

 【天文七年戊戌七月に、大内義隆大軍を率いて、備後国に攻入り、山名宮内少輔氏政が
  神辺の城を囲み責む。氏政防戦すといへ共、国中に異心の者多く、終に落城して
  氏政自害せり。氏政が郎等藤井能登入道、大江田隼人介は、氏政の子を伴ひて
  因州に来り、後京都に赴く。】

とある。

一般に言われる皓玄の履歴とは大きく違うところもあるので、
何ともいえない部分もあるし、天文7年の大内氏による武力攻撃という通説部分は
私は支持をしていないのだけれど、「国中に異心の者多く」という箇所は目を引く。

理興が神辺城に入ることになったいきさつは、
「神辺和談」によるものだとは思うものの、
まだ和談の全貌は解明されてないみたいだし、私自身も消化できてない。

が、単純に考えて前の城主に仕えてた人が
新城主の2番家老になるっておかしくね!?と思ってたんだけど、
すでに神辺周辺での存在感もあった藤井氏が、
和談に際して理興・・・というか、尼子派でない新城主を迎えることを
支持したのかもしれないな~、と上の文章を読んで思った。
あるいは、皓玄が氏政排斥に積極的に関わったのかもしれない。


え~、皓玄さんがこの段階で京へ行ったのかの真偽は不明ですが、
世間では理興の2番家老を務めたという説が強いので、
ひとまずそちらの線で話を進めます。


で、神辺城主・杉原豊後守が死去した後、
4番家老の盛重が跡を継ぐことになった際に、
藤井皓玄と大江田隼人祐は子連れで野に下って京は清水寺の近くに居を構え、
潜伏していたとされる。
だから、どっちにしても京には行ったみたいなんだけどね(笑)。

皓玄が神辺城を退去したのは、自分より下位にあった盛重に仕えるのを
よしとしなかった2番家老のプライドだと世間では語られる。

ま~ま~そこはいいとして、2番・3番が納得できなかったものを、
トップの興勝は耐えたのか?ってふと思った。



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最終更新日  2013年09月30日 22時49分48秒
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