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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月26日
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カテゴリ:上野と寛永寺
あと、宮の大事なお勤めとしては、寛永寺で将軍の葬儀があった場合の
導師の役割がありますね。


では、ひとりの宮について少しご紹介しましょうか。

「上野第二編(19」で天海の遺言の中に京・毘沙門堂の復興が含まれており、
公海の代になって完成したと紹介しましたが、
毘沙門堂の復興に最初に手を付けたのは天海であり、
天海の存命中に現在地に土地を与えられたようなことが
ウィキペディアに書いてあるんだけど、
『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、4代・家綱によって現在の山科へ
移転させる形で実現したとある。

これは公海自身の書状にもそう書かれているらしいんだけど、
今の私にはどちらが正しいのかの判断をするだけの材料がありません。
が、リニューアル毘沙門堂が完成したといわれる寛文5年(1665)は
毘沙門堂のホームページによると、本堂が落慶した年にあたるらしい。
ま、家綱の代で復興が相成ったという事に変わりはないよな(←大ざっぱ)。


この毘沙門堂、門跡寺院として名高いが、
後西天皇の第6皇子・貴宮秀憲親王がここで受戒して以後門跡寺院となったとある。

貴宮秀憲親王は出家ののち、親王宣下を受けて法親王となった。
21歳の時、輪王寺門跡に就任し、寛永寺住職としては5代目、
宮門跡としては3代目の輪王寺宮となる。

これが公弁(こうべん)法親王で、
歴代輪王寺宮の中では初代の守澄法親王、最後の公現法親王とともに
世間に(ある程度)知られている宮。


唐突に毘沙門堂のことを持ち出したのには訳がある。
実は、輪王寺宮が山主となって上野に入る前には
まず毘沙門堂に入ることが慣例となっていたそうなのだ。
おそらく、その起源が公弁法親王だと思われる。

天海の遺した足跡は、色々なところでつながっている。
遺言その5の恩赦もそのひとつで、天海自身もあの紫衣事件をはじめ、
家光の弟の駿河大納言忠長や、福島正則などの件でも赦免を願い出ており、
それはまず家光に受け継がれ、さらに輪王寺宮が特赦を願い出る基となったという。

ただ、輪王寺宮による特赦のお願いには有名な例外もある。
時期的にタイムリーな話題でもあるので、聞けばほとんどの人が

「あ~~~!!」

と口を開けるんでしょうが、公弁法親王の輪王寺宮就任は元禄3年(1690)。
元禄でタイムリーと言えば、そうです、いわゆる「忠臣蔵」です。


だいぶ以前の記事で、わたくしがアンチ忠臣蔵であることをカミングアウトしてますが、
やっぱり今年も年末が近くなるとTVやネットではそのテの話題が多くなり、
賑やかに忠臣蔵を語る世間を冷ややかな目で見ております。

と、まあそれはともかく、旧浅野家の浪士たちが吉良邸で惨殺事件を起こした後の幕府は
対応に頭を痛めた。

時の将軍・綱吉は57歳、公弁法親王は34歳。
2人は23歳もの年の開きがあったが、かなり親密な仲だったようで、
寛永寺の主要堂宇の建立時期の一覧を見ると、
家綱時代の寛文9年(1669)に「時の鐘」が建立された後は
一旦堂宇整備が頓挫したような形に見えるのが、
綱吉の代に入った元禄11年(1698)に根本中堂や宝蔵、吉祥閣などが
一気に建立されて、ようやくここでほとんどの主要な堂宇が出揃う。
それも2人の関係の深さを物語るものだと『上野寛永寺 将軍家の葬儀』は言う。


討ち入りから処断が決まるまでの間、浪士達は一旦4大名家の預かりとなったが、
この間の各大名家の待遇に対して江戸の庶民は

  細川の水の(水野)流れは清けれど
    ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる

と狂歌で風刺したという。
つまり、4大名家のうち厚遇した細川・水野は賞賛され、
冷遇した毛利・久松松平にはブーイングが集中したそうな。

幕閣や学者の間でも意見が割れ、
なんとなく助命モードになりつつあった綱吉もうかうかと

「ね・・・ねえ、今回は助命でどお?」

とは立場上言いだせず、宮の特赦を利用する手を思いついた。
で、宮と対坐してノドまで出かかっていた上のセリフを
さりげな~く遠まわしに表現してみたところ、
宮の反応は意外なものだった。


「まあね~、確かに忠義者だとは思いますよ。
でも、もしここで助命した者の中から、
さらに不祥事を起こす者がいたらどうします?
今回の義挙にまで傷が付いちゃうんじゃないですかね?

今ここで死を与えておけば、
後世にまで忠臣として長く語り継がれていくでしょう。
ただ命を助ければいいってもんじゃない。
時には死も情けだと思いますけどね~」



宮の仰せに納得した綱吉は、やっと決断したという。



そもそもの発端となった江戸城での傷害事件の動機について、
犯人の浅野長矩(ながのり)氏は胸のうちを明かしていない。

だから様々な憶測を呼び、物語の中では好き勝手なエピソードが
まことしやかに語られたりするんだけど、
上野編を書き始めて色々読む中で江戸時代の儀礼とか格式とか少し知るようになると、
一国を預かる藩主が、こともあろうに勅使を迎える江戸城において
個人的怨恨(と、長矩は言っている)で刃傷に及ぶなど、
もはや狂気の沙汰としか思えない。
前はあんまりそこまで考えたことはなかったけどね。

ドラマなどでは必ずといっていいほど、吉良義央(よしひさ)の陰湿なイジメが
悪いんだと言わんばかりに幾つかのイジメの場面が挿入される。
信憑性は低いながらも、津和野にも義央にいじめられたという記録があるらしい。

が、寛永寺への将軍参詣に警護を命じられた島原藩松平家の記録を見るに、
当時の江戸住まいの大名家の間ではさまざまな情報を交換して
乗り遅れないようにしたり、よそ様と対応がブレないようにする
独自のきめ細やかなネットワークが存在していたらしいのだ。

だから、ドラマなどで語られるようないじめの犠牲者になったというのは
私にはちょっと考えにくいし、もしそういう類のことがあったのだとしたら、
江戸詰めの家臣の努力が不足していたんだろうとも思う。

ま、それでも人間だから相性の問題もあるし、
そこそこの嫌がらせもあるにはあったんでしょうけど、
例えば附届けを多めにして心証を良くしたり、色々努力はしたハズ。
それでもなおかつイジメに遭ってしまったら、もう耐えるしかない。

江戸期には幾つかの似たような事件もあるにはあるけど、
ここまで大きな事件を起こしたのは浅野長矩ただ1人なんだから、
他にイジメの犠牲者がいたとしても、長矩以外はみんな耐えたのだ。
あの時代において、それは正しい。
藩主には、国を守る義務があるのだから。


やあ、もうこの点について書き出すと止まりませんよ~泣き笑い
だってもう、腹立たしいにもほどがあるってゆーか。

浅野長矩のたった一度の短慮な行動は、実に多くの人の運命を狂わせた。

まず国を潰し、吉良義央をはじめとする吉良家の20人以上の命を奪った。
浅はかな主君に対してまで殉じた討ち入りの浪士達もみんな死んだ。
援軍を出さなかった義央の子・上杉綱憲は非難され、
綱憲の子で吉良家を継いでいた義周(よしちか)も命を縮めた。

松の廊下で浅野長矩を止めた梶川殿も非難を受けた。
討ち入りに参加しなかった旧浅野家家臣とその家族は幕末までなじられ、
養子先から追い出される者もいるなど、長く苦労が続いた。
偽名を使ってひっそりと生きたなんて話もある。


まあ、宮と綱吉の会話が史実なのかはわかりませんが、
もしそうだったのなら、300年以上経った今もなお、
当時浪士達に喝采を浴びせた江戸っ子と同じように世間で浪士達を賞賛する裏には
宮の読みがあったことになる。

ぶっちゃけ個人的には、

「ちぇっ、あの時生きながらえさせて
義挙に傷を付けてくれた方がよかったのに・・・」


と思わないでもないけど、確実に少数派であるわたくしの個人的意見はともかく、
宮が有名な事件と関わりがあったかもしれないというお話でした。


はうっ、結局半分以上赤穂事件の話になってしまった・・・
ちなみに、前にも書きましたが、わたくしは浪士達を忠臣だと思ってますよ。
ただ、討ち入りの中身はほとんど無抵抗の者をバッサバッサと斬り捨てた立派な虐殺。

歴史ファンの皆様のほとんどはドラマをそのまま史実として
受け止めてはいないでしょうが、一般的にはあまりにもフィクションの部分が
独り歩きしていると思うし、毎年、特に討ち入り当日にはなにかと話題になり、
浪士達の眠る泉岳寺を訪れるファンは多いものの、
同じ日に無残な殺され方をした吉良家家臣の墓の場所がわからないことを
知る人はほとんどいないだろうし、
「忠臣蔵」を口にする人で吉良家中の冥福を祈る人はほとんどいないだろう。

「世の中、不公平」

これの一語に尽きます涙ぽろり



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最終更新日  2014年07月31日 21時04分36秒


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