カテゴリ:上野と寛永寺
今日は1月4日。
昨日は1月3日。 元日の3日です。 「元三」です。 そうなんです、昨日は良源さんの命日だったんですよ~!! という訳で、(また)行って参りました。 寛永寺へ ![]() が、昨日も結構色々とスケジュールが詰まっていて、 ちょっと時間が読みづらい部分もあったので、 上野へ行く前に懐かしい場所へ少し寄り道をしました。 ホントは昨日、ちゃっちゃとこの記事を上げるつもりでしたが、 気分を害したことがあって夜に書くのはやめました。 今日は貞子 ![]() ![]() が遊びに来たのですが、貞子と遊びつつも明るい昼間のうちに 書きあげてしまうつもりでした。 が、ちょっと遊びすぎた・・・ いや、起きるのが遅かったしな。 だって昨日疲れたんだもん。 で、結局夕方になってから書き始めてる訳ですが、 もうしょうがないので、とっとと書いてしまいます。 あ~、なんか思わせぶりな書き方かもしれませんが、 別に恐い話が出てくる訳じゃないですよ。 私がそんなもの書くはずないでしょ。 ただ、ちょっとね・・・ それでは、本編の途中で恐縮ですが お正月特番(笑)を始めさせていただきます。 柏から常磐線に揺られてればそのうち上野に着きますが、 昨日は少し手前の北千住から地下鉄日比谷線に乗り替え。 で、降りたのはこちら↓。 ![]() 歴史好きの皆様なら、ここに何があったかすぐわかるでしょう。 時代劇なんかで、小伝馬町の牢屋敷はお馴染みですからね。 まずは地上に上がります↓。 ![]() 手前の道が人形町通り。 写真のすぐ左手は大きな交差点で、江戸通りとクロスします。 で、目の前に見えてる角から2ブロック分くらいが 小伝馬町牢屋敷の敷地のようです。 横断歩道を渡って右側に歩き出すとすぐ、このお寺があります↓。 ![]() これは脇の入口のようで、お寺に沿った小道を左に入ると 正面があります↓。 ![]() 【準別格本山 江戸第五番札所 新高野山 大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は江戸時代、徳川幕府の牢獄の所在仕し所なり。当山開基 山科俊海大僧正、明治初年、高野山より錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十方に布く。時、偶々、此地伝馬町牢、処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悲禁ずる能はず。 幾万余の知られざる無告の霊、鬼哭愁々として寄辺たるを弔ひ、又安政の大獄で 知られる吉田松陰等、当地で処刑された勤王の志士の霊を慰め、又一つには 牢跡を以て浄地となし四隣の繁栄に資せん事を希念し、明治五年より勧進し、 同8年一宇を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。 又処刑場跡には延命地蔵菩薩を建立し、堂塔、伽藍を整備(現十思公園を含む) これを当山の濫觴とす。爾来尊崇の信仰を聚め都心に輪喚の美を競うも 大正12年の大震火災にかゝり昭和四年今日の規模となり現在に及ぶ。 昭和29年都史蹟指定。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換、適宜句読点挿入) え~、今回は都合によりサクサク進めますよ~。 本堂の向かって左手の小さなスペースには色々あります↓。 これがここでのメインです。 ![]() が、まずは本堂へお参り。 ![]() ![]() ![]() お賽銭箱↓。 ![]() ・・・の前にあるモノ↓。 ![]() それの説明↓。 ![]() どうやら、住職様や副住職様があちこちから持ち帰ってきた砂が この石の花の下に埋められているらしいです。 本堂の中からは読経の声が聞こえてくるので、静かにお参り。 本堂の向かって右側・・・庫裏かな?↓ ![]() さてと、規定通りご本尊様にご挨拶した後で、いよいよ左のエリアへ。 まずはこちら↓。 ![]() お地蔵様の下の台座にある字は、山岡鉄舟によるものだそうです。 ![]() ![]() ちょっとね、こーゆーのを赤字で書くと迫力あるからやめて欲しいんだけど、 ひとまず東京都教育委員会の看板から。 【東京都指定旧跡 伝馬町牢屋敷跡 伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、 明治8年(1875)に市ヶ谷因獄へ移転までの江戸の牢獄でした。面積は 2,600余坪。揚座敷、揚屋、大牢(庶民)、百姓牢、女牢などの獄舎や拷問蔵 などがありました。 定員は350名程度、最大700名を収容できたといいます。牢屋奉行には 石出帯刀が世襲しました。安政大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが 収容されていました。】 何で新年早々、恐がりのわたくしがこんな場所へ来たのか 不思議に思う方もおられるかもしれませんが、 実はここ、一時期わたくしの生活の場所だったんです。 生活って言っても、住んでた訳じゃないですよ。 このすぐ近くに、数年勤めてたんです。 で、このお寺の向かいにある公園で、ランチしてました。 毎日。 当時は日本史は幕末ぐらいしか関心はありませんでしたが、 小伝馬町の牢屋敷ったら時代劇にもよく出てくるし、 公園内にも石碑は色々あるので、ここがどういう場所かは知ってました。 でも、ただ「知ってる」のと現実の生活とはあくまで別モノなので、 それはそれとしてフツーに晴れた日の昼には公園で憩ってました。時々は 「松陰先生がここにおられたんだな~」 なんて思うこともありましたが、ただそれだけでした。 普通の牢屋敷だと思っていたので。 昼になったら弁当持って公園に来て、時間になったら職場へ戻る・・・ 向かいにお寺があるのは知ってましたが、入ったことはありませんでした。 上の写真の赤字に「御椓場」とありますが、 この場所、刑場だったそうなんです ![]() 寛永寺の記事を書き始めてから、江戸関係の本は日を追うごとに増えていきました。 史料類は沢山ありそうだし、高価な本も多く、 そもそも史料だとどこから手を付けていいかもわからないので、 現在のところ江戸関係の本は一般書に限られています。 その中の一冊に『歴史散歩 江戸と東京』(堤紫海著/文化総合出版)という本があり、 まだほとんど読んではいませんが、年末に上野近辺のことでも書いてないかと ぱらぱら見ていたら、小伝馬町の牢屋敷の項があったので何気に見たらば、 公園の隣が刑場だったとゆー衝撃の事実が書いてある・・・!! げえええ~~! マジでええぇぇぇ・・・ ![]() もうホントにびっくりしました。 当時、その事実を知ってたら公園でランチをしなかったのか、 それはわかりませんが、ともかくろくな事を知りもしないで のんきにメシ食ってたことが何だか申し訳ないような気がして、 それと現地の様子をもう一度確かめたくて、 恐いし新年早々なのにいてもたってもいられず、 久々にここへやって来たとゆー訳です。 別の江戸の本も読んでみたら、江戸時代には一般に死を与えられた場合でも いくつかの種類があるそうなので、昨日、帰ってご飯を食べながら 少し刑罰について勉強しようかとすまほで検索してみました。 そしたらちょっとおかしな事が起こったので、 これは勉強すんなって事かな・・・と思って、 ここではそうした詳細については省きます。 なので、手持ちの資料を見るしかないのですが、 前述の『歴史散歩 江戸と東京』によると、 【責任者の牢頭には、大番衆があたり、「御椓場」といわれた死刑場の係りには、 有名な山田浅右衛門などがいた。与力一人が、見回り吟味にあたり、下に同心が 十名余、獄丁などがいたのである。 死刑場の跡は、大安楽寺門内で、そこにあった血溜りの穴の近くに、今は大きな 銅製の地蔵さんがまつられている。】 だそうなので、まさにこの場所なんです・・・ 都の教育委員会の解説には松陰先生と橋本左内の名がありますが、 頼三樹三郎もここで、らしく、 安政の大獄関係の方達は96名も、だそうです。 あ~、恐くてはっきり言えないんですよ(笑)。 恐いんなら行かなきゃいいんだけど、 知らなかったことがホントに申し訳なくて、 行かなきゃ!って気になっちゃったんだもん。 それにここなら、知った場所だから下調べとか何もいらなかったしね。 で、このお地蔵様ですが、お寺にはこんな風に書いてあります。 【子育 息災 延命地蔵尊 安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、処刑場跡を供養 するために建立された。 製作者 日展審査委員横江嘉純】 ![]() にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年07月31日 21時03分09秒
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